牧港

沖縄県浦添市北部の地名
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牧港(まきみなと、まちなと)は沖縄県浦添市北部の地名。郵便番号901-2131。

牧港交差点

地理

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浦添市北部に位置する。港川伊祖宜野湾市嘉数大謝名宇地泊と隣接する。

歴史

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牧港の生い立ちは、既に14世紀に沖縄最古の貿易港としての記録がある。しかし河川からの土砂が溜まりやすく、海底も浅く大きな船舶が停泊しづらかったため那覇港にその役目を渡した。その後は漁船や山原船の停泊が主になる。 戦後、工業用地確保のため牧港と呼ばれた海岸は埋め立てられ、現在牧港という港は存在しないが、牧港川の河口の牧港湾内に牧港漁港という第1種漁港が存在する。 戦前までは現国道58号と現県道153号線の交差点周辺に集落がある程度で、その他はほとんどが田畑であった。その後、終戦を経て住宅街が広がるようになった。

地名の由来

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源為朝と妻思乙・息子尊敦が別れた地であるとされ、妻子が為朝の帰りを待ち続けた海岸が人々に待ち港(まちみなと、まちなと)と呼ばれるようになった事が地名の由来とされている[注釈 1]。牧港のテラブのガマと呼ばれる洞窟にも同様の伝説が残されている。

施設

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牧港一丁目

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国道58号の牧港一丁目区間は九州沖縄の一般道路の中で最も交通量が多い。

牧港二丁目

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牧港三丁目

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急な坂が多いため閑静な住宅街が広がる。

  • 浦添市中央公民館分館(元浦添市商工会議所)

牧港四丁目

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牧港川と比屋良川に挟まれた地域。

  • 沖縄県営牧港団地
  • マチナトボウル
  • A&W牧港店

牧港五丁目

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大部分が埋立地で、沖縄電力の敷地である。

字牧港

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交通

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道路

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直線ではないが、ほぼ東西方向に走っている。牧港区間は九州沖縄の一般道路で最も交通量が多い。

鉄道

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戦前、沖縄県営鉄道嘉手納線牧港駅が存在していた。

脚注

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注釈

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  1. ^ 琉球王国正史中山世鑑』『おもろさうし』『鎮西琉球記』『椿説弓張月』などでは、源為朝沖縄の地に逃れ、その子が琉球王家の始祖舜天になったとされる。真偽は不明だが、正史として扱われており、この話がのちに曲亭馬琴の『椿説弓張月』を産んだ。日琉同祖論と関連づけて語られる事が多く、この話に基づき、大正11年には沖縄県に為朝上陸の碑が建てられた。表側に「上陸の碑」と刻まれて、その左斜め下にはこの碑を建てることに尽力した東郷平八郎の名が刻まれている。なお、『中山世鑑』を編纂した羽地朝秀は、摂政就任後の1673年3月の仕置書(令達及び意見を記し置きした書)で、琉球の人々の祖先は、かつて日本から渡来してきたのであり、また有形無形の名詞はよく通じるが、話し言葉が日本と相違しているのは、遠国のため交通が長い間途絶えていたからであると語り、源為朝が王家の祖先だというだけでなく琉球の人々の祖先が日本からの渡来人であると述べている。(真境名安興『真境名安興全集』第一巻19頁参照。元の文は「此国人生初は、日本より為渡儀疑無御座候。然れば末世の今に、天地山川五形五倫鳥獣草木の名に至る迄皆通達せり。雖然言葉の余相違は遠国の上久敷融通為絶故也」)なお、最近の遺伝子の研究で沖縄県民と九州以北の本土住民とは、同じ祖先を持つことが明らかになっている。高宮広土鹿児島大学)が、沖縄の島々に人間が適応できたのは縄文中期後半から後期以降である為、10世紀から12世紀頃に農耕をする人々が九州から沖縄に移住したと指摘するように、近年の考古学などの研究も含めて南西諸島の住民の先祖は、九州南部から比較的新しい時期(10世紀前後)に南下して定住したものが主体であると推測されている[1][2]2021年11月10日マックス・プランク人類史科学研究所を中心とした、中国日本韓国ヨーロッパニュージーランドロシアアメリカの研究者を含む国際チームが『ネイチャー』に発表した論文によると、宮古島市長墓遺跡先史時代人骨DNA分析したところ「100%縄文人」だったことが分かり、先史時代の先島諸島の人々は沖縄諸島から来たことを示す研究成果となった[3]。また、言語学および考古学からは、中世グスク時代11世紀~15世紀)に九州から「本土日本人」が琉球列島に移住したことが推定でき、高宮広土鹿児島大学)は、「結果として、琉球方言の元となる言語を有した農耕民が本土から植民した。著名な『日本人二重構造論』を否定するという点で大変貴重だ」と指摘している[3][4]

出典

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参考文献

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  • 浦添市牧港自治会.『牧港字誌』
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