畠山持永
室町時代中期の守護大名。河内国・紀伊国・越中国守護。左馬助。畠山満家の次男。
畠山 持永(はたけやま もちなが)は、室町時代中期の守護大名。河内国・紀伊国・越中国守護。官位は左馬助。
時代 | 室町時代中期 |
---|---|
生誕 | 不明 |
死没 | 嘉吉元年閏9月5日(1441年10月28日)? |
官位 | 左馬助 |
幕府 | 室町幕府 河内、紀伊、越中守護 |
主君 | 足利義教 |
氏族 | 畠山氏(金吾家) |
父母 | 畠山満家 |
兄弟 | 持国、持永、持富 |
略歴
編集畠山満家の次男として誕生。生誕年は不明だが、兄・持国、弟・持富と同様、室町幕府4代将軍・足利義持の偏諱(「持」の字)を賜っていることから、義持の在職中に元服は済ませている筈である。
嘉吉元年(1441年)1月29日、兄・持国が6代将軍・足利義教(義持の弟)の怒りに触れて家督を更迭されると、家臣の遊佐氏・斎藤氏らに擁立されて当主となった。しかし、6月24日に義教が赤松満祐に暗殺される(嘉吉の乱)と持国が赦免され、持永は7月4日に京都から出奔、越中に逃れたが、持国方に打ち破られた。この時持永は討たれたとも、閏9月5日に摂津国で身を隠していた所を発見、殺されたとも言われる。
|
|
|