盛曼
生涯
編集呉に仕えた人物で、蜀との国境に近い建平太守を務めた。永安7年(264年)2月、孫休は蜀漢が魏に降伏したことを受けて、建平太守・盛曼および謝詢ら水陸の部隊を羅憲の守る永安城(守兵二千)へ派遣した。この軍勢は蜀への救援を掲げるも、内実は永安攻略を目的としていた。盛曼は羅憲に向けて「合従の計」を説き、城門を借り受けることを求めたが、遣わされた楊宗に「城中の土を一握も取れぬのに、なぜ城門云々と申すのだ?」と罵倒された[2]。さらに、城内の人心をまとめるべく銜枚(兵士や馬の口に噛ませる板)を使った羅憲軍が夜襲に出ると、これに敗れた[3]。
城の守りが固いとみると、撫軍将軍・歩協[4]が援軍に到着し、その後さらに鎮軍将軍・陸抗(および征西将軍・留平)ら三万も追加され攻囲を続けた。城内の大半が病に侵され、士気も限りなく低下していたが、呉軍は半年たっても城を落とせなかった。そうして半月後の七月、荊州刺史・胡烈が歩騎二万を引き連れて西陵を攻めた為、陸抗らは永安から撤兵した[5][6]。