竺可楨
竺 可楨(じく かてい、チュー・コーチェン、竺可桢、拼音: 、Coching Chu、1890年3月7日 - 1974年2月7日)は、中国の気象学者、地質学者、教育者。
人物情報 | |
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生誕 |
1890年3月7日 清 浙江省紹興県 |
死没 |
1974年2月7日 (83歳没) 中華人民共和国 北京市 肺癌 |
居住 | 中華人民共和国 |
国籍 | 中華人民共和国 |
出身校 | |
配偶者 | 張俠魂、陳汲 |
学問 | |
研究分野 | 気象学、地質学 |
研究機関 |
南京大学 浙江大学 中央研究院 中国科学院 |
学位 | PhD |
経歴
編集1910年に大学教育を受けるためにアメリカ合衆国へ公費留学した。1913年には、イリノイ大学農学部を卒業した。1918年には、ハーバード大学から気象学のPhDを授与された。
1918年に帰国し、国立武昌高等師範学校を経て、南京高等師範学校〜国立東南大学教授となった[1]。
1928年、中央研究院に新設された気象研究所の所長となり、以降、中国全土における気象観測網の整備に努めた[2][3]。
1936年に浙江大学学長となり、日中戦争下の困難な時期に大学の運営に当たった[1][2]。蔣介石の台湾への退去の際には、退去を拒み、大陸にとどまった[4]。
中華人民共和国の建国後は北京市に移って、1950年には中国科学院初代副院長となり、以降、全国人民代表大会常務委員、中国地理学会会長、中国気象学会会長などを歴任した[1]。
配偶者
編集1919年12月27日、竺可楨は上海市で、当時、名家出身の才女として、また中国初の女性飛行士として有名であった張俠魂と結婚式を挙げた。夫妻は20年連れ添い、子どもたちも生まれたが、その多くが浙江大学の西方への退去の中で赤痢のため亡くなり、張夫人も1938年8月3日に江西省泰和県で赤痢のために病死した。
妻子を失った竺可楨は、後添えとして陳汲と再婚することとなり、1939年9月18日に峨眉山金頂で結婚し、1940年3月15日には重慶市で婚礼をした。ふたりの間には娘がひとり生まれた。
脚注
編集- ^ a b c 日本大百科全書(ニッポニカ)『竺可楨』 - コトバンク
- ^ a b 世界大百科事典 第2版『竺可楨』 - コトバンク
- ^ 『激励学生成长的名人故事丛书(套装共8册)』青苹果数据中心、2015年。「1927年民国政府定都南京, ... 竺可桢应蔡元培院长之邀,参与筹建观象台,负责气象组工作。翌年2月,出任中央研究 院气象研究所所长,在开创我国近代气象事业的艰苦道路上迈出了第一步, ...」 Google books
- ^ 漆高儒『蔣經國的一生』傳記文學出版社、台北。ISBN 9578506074。「這個人(竺可楨)和我(蔣經國)私交不錯,當找到他的時候,我轉達了領袖(蔣介石)請他到台灣的意思之後,他想了想說:「謝謝領袖的好意,我看不必了。詢以原因,他說:「大勢已去,台灣將維持多久,頂多半年?一年?」我說:「時局決非如此!」後來無法再說下去,他反而跟我說:「你不必到台灣去了。」當時我憤怒的說:「人各有志。」最後便不歡而散。」