藤原俊家

平安時代中期の公卿、歌人。藤原頼宗の次男。正二位・右大臣。中御門流の祖

藤原 俊家(ふじわら の としいえ)は、平安時代中期から後期にかけての公卿歌人藤原北家御堂流右大臣藤原頼宗の次男。官位正二位右大臣大宮右大臣と号す。中御門流の祖で、子孫からは中御門家(松木家)・持明院家を始め、9家の堂上家羽林家)を出した。

 
藤原 俊家
時代 平安時代中期 - 後期
生誕 寛仁3年(1019年
死没 永保2年10月2日1082年10月25日
別名 大宮右大臣
官位 正二位右大臣
主君 後一条天皇後朱雀天皇後冷泉天皇後三条天皇白河天皇
氏族 藤原北家中御門流
父母 父:藤原頼宗、母:藤原伊周の娘
兄弟 兼頼俊家基貞能長能季、頼観、延子昭子源師房
源隆国の娘、高階順業の娘
源為弘の娘、源兼長の娘
藤原季範の娘
宗俊師兼基俊基頼宗通全子藤原師通
特記
事項
中御門流の祖
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経歴

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後一条朝長元4年(1031年元服と同時に従五位上直叙され、まもなく侍従任官。右近衛少/中将を経て、長元8年(1035年)蔵人頭(頭中将)に補せられる。しかし、長元9年(1036年)正月に随身に命じて同僚の蔵人頭・藤原経輔の随身を松明で殴打させたため、蔵人頭を解任され殿上籍も除かれた。4月に蔵人頭に復職後、まもなく後朱雀天皇践祚するが、俊家は引き続き蔵人頭に再任されている。同年11月の大嘗会に際して正四位下に叙せられると、長暦2年(1038年従三位参議に叙任され公卿に列した。

議政官の傍らで、備後権守伊予権守といった地方官や、短期間ながら大蔵卿を兼帯する一方で、長暦3年(1039年正三位長久2年(1041年従二位と昇進している。

後冷泉朝永承3年(1048年権中納言に昇任されると、翌永承4年(1049年)父・頼宗の譲りにより正二位に昇叙されるが、しばらく兼官を帯びることはなかった。権中納言昇任後10年以上を経た康平3年(1060年)ようやく右衛門督を兼ね、康平7年(1064年)には検非違使別当も兼帯している。

康平8年(1065年)父の右大臣藤原頼宗が没するがこれを受けた人事異動が行われ、俊家は権大納言に昇進し、民部卿を兼ねた。その後、後三条朝末から白河朝初頭にかけて、関白を務めた藤原頼通教通兄弟や右大臣・源師房が没して大臣のポストが空く。しかし、藤原師実(頼通の子)が関白を承継したことを不満に出仕を止めてしまった内大臣藤原信長(教通の子)を昇進させるわけにいかず、人事が滞って俊家も権大納言に長く留められた。

承暦4年(1080年)白河天皇と関白・藤原師実によって、藤原信長を名誉職の太政大臣に祭り上げる人事異動が行われ、俊家は15年ぶりに昇進して右大臣に就任した。永保2年(1082年)10月2日に病気により出家薨去享年64。最終官位右大臣正二位

伝承

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よく通る声で、歌を詠いあげるのがうまかったとされ、その声に誘われて多政方という舞の名人と阿吽の呼吸で舞い踊ったという(『古今著聞集』)。

能楽の「佐保山」の由来は、藤原俊家の一行が春日大社に参詣した際に佐保山の上に白雲のような物を見つける。その白い物は衣で、その衣をさらしていた女性にその謂われを尋ねると、和歌にも詠まれている特別な衣だと答え、奈良の山々や景色、その山神の神徳と君が代の万歳をことほぎ、神祭りを見せようと姿を消す。そして佐保山の姫が現われ神楽を奏したということにある。

官歴

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注記のないものは『公卿補任』による。

系譜

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なお、通説では藤原道兼の曾孫とされている藤原宗円宇都宮氏八田氏などの祖)について、『中右記』の記述を根拠として正しくは俊家の息子で三井寺に入っていた人物であるとする説(野口実[4]が出されている。

脚注

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  1. ^ または10月28日
  2. ^ a b c d 『近衛府補任』
  3. ^ a b 『日本紀略』
  4. ^ 野口実「下野宇都宮氏の成立とその平家政権下における存在形態」『東国武士と京都』(同成社〈同成社中世史選書〉、2015年、ISBN 9784886217110)所収。(初出: 「下野宇都宮氏の成立と、その平家政権下における存在形態」『研究紀要』第26号、京都女子大学宗教・文化研究所、 2013年3月、CRID 1050001337576100096hdl:11173/158ISSN 0914-9988。)

参考文献

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