藤原範忠

平安時代末期の公家、神官。藤原季範の長男。従四位上・内匠頭。熱田大宮司。野田氏の祖

藤原 範忠(ふじわら の のりただ)は、平安時代末期の公家神官藤原南家熱田大宮司藤原季範の長男。官位従五位上[2]内匠頭源頼朝の外叔父にあたる。

 
藤原範忠
時代 平安時代末期
生誕 不詳
死没 不詳
官位 従五位上内匠頭
氏族 藤原南家
父母 父:藤原季範、母:源行遠の娘
兄弟 範忠範信範雅範綱範智長暹祐範千秋尼大進局由良御前源義朝室)、源師経
美福門院女房上総
忠季清季範高能季寛伝[1]、任暁、足利義康
テンプレートを表示

生涯

編集

熱田大宮司季範の長男として生まれながら、大宮司職は季範の存命中に、弟の範雅に譲られた[3]。しかし、父が死去した久寿2年(1155年)に、範雅に代わって範忠は大宮司に就任する[3]。このあたりの事情は父との不和があったことが推測されている[4]

官位については、久安5年(1149年)に縫殿助文章生所から正六位上兵部少丞に昇進、仁平3年(1153年)に、義兄弟の源義朝とともに従五位下に叙せられ、応保元年(1161年)に左近衛将監内匠頭と進んでいる。政治的には妻に美福門院女房上総を迎え、外孫の足利義兼美福門院の皇女・八条院蔵人になっていることから、美福門院に接近していたものと推測される。

また、源義朝の正室・由良御前は範忠の姉妹であり、当初政治的にも近い関係にあったと思われる。実際に保元の乱においては、範忠は外戚として義朝に兵を差し出している。しかし、平治元年(1159年)の平治の乱においては義朝には援軍を出さず、逆に戦後駿河国に潜伏していた義朝の五男希義(母は由良御前)を捕らえて朝廷に差し出すという行動をとっている。

その後も後白河院近臣として仕える[5] が、後白河院と二条天皇との対立が深まる中で、応保元年(1161年)に天皇を呪詛したとの罪状で解官・逮捕され、翌年周防国配流された。この時点で大宮司職は再び範雅の手に渡るが、嘉応2年(1170年)頃には赦免された範忠が再度その地位に復帰している。なお、同職はその後も二転三転し、治承2年(1178年)には平時子の命で範忠の孫の藤原忠兼に継承されるが、治承5年(1181年)には範雅が三度返り咲いている[3]

範忠の一女は祖父・季範の養女として足利義康に嫁ぎ、義兼・義房[6] らを産んでいる。この縁もあり、子孫の多くは足利氏と行動をともにしている。

系譜

編集

脚注

編集
  1. ^ 滝山寺住職
  2. ^ 『真光院本藤原氏系図』。『尊卑分脈』では従四位上。
  3. ^ a b c 『熱田大宮司千秋家譜』
  4. ^ 藤田元啓『中世熱田社の構造と展開』
  5. ^ 時期は不明であるが、『尊卑分脈』の記述によれば後白河院の上北面を勤めていたという。
  6. ^ ただし義房は源季邦(義康弟)と同人物という説もある。

参考文献

編集
  • 藤本元啓『中世熱田社の構造と展開』続群書類従完成会、2003年

関連項目

編集


  NODES