賞典禄
賞典禄(しょうてんろく)は、明治維新に功労のあった公卿、大名および士族に対して、政府から家禄の他に賞与として与えられた禄である。支給期間によって永世禄、終身禄および年限禄の3種に分類される。
概要
編集戊辰戦争から箱館戦争の間における旧幕府軍及び佐幕派諸藩との戦いにおける官軍の勝利は、明治政府の構成員であった公武の人々のみならず、当初は日和見的な態度を取っていた諸藩の官軍への参加もあってのものだったため、官軍参加諸藩には旧幕府や佐幕派諸藩・旗本から政府が没収した所領の再配分を望む者が少なくなかった。大久保利通や木戸孝允らはこれに反対したが、諸藩の強い要請から1869年(明治2年)6月に政府は功労のあった公家・大名・武士・兵隊などに賞典禄という恩賞を出すことを決定した[1]。賞典禄には、家禄と同様に無期限に給付され、子孫への世襲が許された永世禄、本人1代のみの終身禄、期限が定められていた年限禄の3種類が存在した[1]。
1869年7月10日(旧暦明治2年6月2日)、戊辰戦争の軍功者419人と諸隊、諸藩、戦艦に対して禄を授けられた(戊辰戦争軍功賞典表)。総額米74万5750石、現金20万3376両。最高は鹿児島藩主島津忠義・久光父子と山口藩主毛利元徳・敬親父子の10万石、高知藩主山内豊範・豊信父子の4万石がこれに次ぎ、藩士では西郷隆盛の2000石が最高であった。同年10月18日、箱館戦争の軍功者に総額3万5220石及び9名及び艦船9隻に対する3年間の年限禄8万5500石(年あたり28500石)、同月30日には王政復古の功臣を賞して禄を授けられた(復古功臣賞典表)。総額は米3万5150石(うち終身禄8名分7050石)、現金1500両。最高は三条実美と岩倉具視の5000石で、木戸孝允、大久保利通、広沢真臣の1800石がこれに継ぐ。以上の内、注記のないものは何れも永世禄である。
ただし大久保利通の「土地を以て功を賞するは国家の長計に非ず」、木戸孝允の「今や封建を廃して郡県の制を復せんとするの秋(とき)に方(あた)り、功を賞するに土地を以てするは極めて不可なり」といった意見に従い、領地ではなく禄米支給となった[2]。
原則として、一時金として出された賞典金を除き、1石あたり現米2斗5升が支給された。また、諸藩においても、藩主が授かった賞典禄の中から藩士に恩賞として分与が行われる場合もあった。これを分与禄という。財源は戊辰戦争で敗れた諸藩から没収した所領が充てられた。だが、家禄とともに財政悪化の一因となった。
支給総額は、永世禄80万9070石、終身禄7050石、年限禄8万5500石で、計90万1620石と、大藩1つ分の石高に相当する負担となった。
依然として支給を続けていた家禄と共に秩禄処分の対象となり、1876年に金禄公債の支給と引き換えで廃された。永世禄を含め、存続したのはわずか7年間であった。
金禄公債の賞典禄の計算方法
編集金禄公債の額は「(家禄+賞典禄[実額])×石代相場(明治5年から明治7年までの3年間の各地方の貢納石代相場の平均額)」によって金禄本高を算出し、その金禄本高の額により一時下賜年数が5年~14年分まで30等級に分けられ(金禄本高7万円以上の者であれば5年分)、その年数を掛けた総額である[3]。
「賞典禄の実額」については、資料に正確な数字の記載は発見されていないが、『華族諸家伝』その他の資料に記載された賞典米高から逆算して、賞典禄も家禄と同じく1/10を実額とし、全ての賞典禄についてその2年半年分を一時に下賜したものと考えられており、計算式にすれば「賞典禄[名目額]× 1/10×2.5」となる[3](つまり賞典禄名目額10万石をもらった島津家や毛利家の場合は2万5000円が実額。島津の方は久光が別家玉里島津家を起こしたので半分の1万2500石はそちらにわたり、忠義分の1万2500石が島津本家の実額となっている)[4]。
金禄公債額を計算式としてまとめれば、金禄本高7万円以上の者の場合は「(家禄+賞典禄[名目額]×2.5/10)×石代相場×5=金禄公債額」である[3]。
たとえば広島藩主浅野家の場合であれば、次の通りになる。(家禄2万5837石+賞典禄名目額1万5000石×2.5/10)×石代相場4.29535×5 = 金禄公債額63万5432円60銭[3]。
主な授禄者
編集- 10万石…島津久光・忠義(鹿児島藩主)[5]、毛利敬親・元徳(山口藩主)[5]
- 4万石…山内豊信・豊範(高知藩主)(さらに豊信には終身禄5000石)[6]
- 3万石…大村純煕(大村藩主)[7]、真田幸民(松代藩主)[8]、戸田氏共(大垣藩主)、島津忠寛(佐土原藩主)、池田慶徳(鳥取藩主)
- 2万3000石…藤堂高猷(津藩主)[9]
- 2万石…鍋島直大(佐賀藩主)、池田章政(岡山藩主)(さらに3年間の年限禄1万石)[10]、井伊直憲(彦根藩主)[11]、毛利元敏(長府藩主)[12]、佐竹義堯(久保田藩主)[13]、松前修広(松前藩主)[14]
- 1万5000石…大関増勤(黒羽藩主)[15]、徳川慶勝・徳成(名古屋藩主)[16]、前田慶寧(金沢藩主)[17]、浅野長勲(広島藩主)[18]、戸沢正実(新庄藩主)
- 1万石…戸田忠恕・忠友(宇都宮藩主)、秋元礼朝(館林藩主)[19]、松平慶永・茂昭(福井藩主)[20]、黒田長知(福岡藩主)、津軽承昭(弘前藩主)[18]、榊原政敬(高田藩主)、六郷政鑑(本荘藩主)、有馬頼咸(久留米藩主)
- 8000石…毛利元蕃(徳山藩主)(さらに3年間の年限禄5000石)[21]
- 6000石…阿部正桓(福山藩主)[22]
- 5000石…三条実美(公卿)[5]、岩倉具視(公卿)[5]、小笠原忠忱(小倉藩主)、前田利同(富山藩主)[23]、堀直明(須坂藩主)、立花鑑寛(柳河藩主)
- 3500石…徳川昭武(水戸藩主)
- 3000石…土井利恒(大野藩主)、松平忠礼(上田藩主)、松平光則(松本藩主)
- 2000石…西郷隆盛(鹿児島藩士)
- 1800石…大久保利通(鹿児島藩士)、木戸孝允(山口藩士)、広沢真臣(山口藩士)
- 1500石…仁和寺宮嘉彰親王、中山忠能(公卿)、伊達宗城(宇和島藩主)、中御門経之(公卿)、大村益次郎(山口藩士)
- 1200石…有栖川宮熾仁親王
- 1000石…板垣退助(高知藩士)、小松帯刀(鹿児島藩士)、吉井友実(鹿児島藩士)、伊地知正治(鹿児島藩士)、岩下方平(鹿児島藩士)、後藤象二郎(高知藩士)、嵯峨実愛(公卿)、大原重徳(公卿)、東久世通禧(公卿)、生駒親敬(矢島藩主)
- 800石…九条道孝(公卿)、澤宣嘉(公卿)、大山綱良(鹿児島藩士)、由利公正(福井藩士)
- 700石…黒田清隆(鹿児島藩士)
- 600石…山県有朋(山口藩士)、前原一誠(山口藩士)、山田顕義(山口藩士)、醍醐忠敬(公卿)
- 500石…成瀬正肥(犬山藩主)
- 450石…木梨精一郎(山口藩士)、寺島秋介(山口藩士)、河田佐久馬(鳥取藩士)、渡辺清(大村藩士)、前山精一郎(佐賀藩士)
- 400石…福岡孝弟(高知藩士)
- 300石…西園寺公望(公卿)、四条隆謌(公卿)、柳原前光(公卿)、西郷従道(鹿児島藩士)、岩倉具定(公卿)、北郷久信(薩摩藩士)
- 250石…清水谷公考(公卿)、桂太郎(山口藩士)
- 200石…桐野利秋(鹿児島藩士)、岩村高俊(高知藩士)、船越衛(広島藩士)、四条隆平(公卿)、澤為量(公卿)、橋本実梁(公卿)、久我通久(公卿)、西四辻公業(公卿)、壬生基修(公卿)、鷲尾隆聚(公卿)、岩倉具経(公卿)
- 150石…中牟田倉之助(佐賀藩士)、曾我祐準(柳河藩士)、山地元治(高知藩士)
- 100石…土方久元(高知藩士)、江藤新平(佐賀藩士)、島義勇(佐賀藩士)、大原重実(公卿)、万里小路通房(公卿)、穂波経度(公卿)
- 80石…谷干城(高知藩士)
- 80石…前田正之(十津川郷士)
- 50石…烏丸光徳(公卿)、平松時厚(公卿)、五条為栄(公卿)
- 35石…青山朗(名古屋藩士)
- 20石…津崎矩子(公卿家来)
- 10石…村口村吉(佐賀藩士)
- 8石…別府晋介(鹿児島藩士)、池上四郎(鹿児島藩士)、篠原国幹(鹿児島藩士)、高城七之丞(鹿児島藩士)
賞典金
編集脚注
編集- ^ a b 日本大百科全書(ニッポニカ) 世界大百科事典 第2版『賞典禄』 - コトバンク
- ^ 落合弘樹 1999, p. 41.
- ^ a b c d 石川健次郎 1972, p. 35.
- ^ 石川健次郎 1972, p. 36.
- ^ a b c d 浅見雅男 1994, p. 102.
- ^ 新田完三 1984, p. 322.
- ^ 新田完三 1984, p. 160.
- ^ 新田完三 1984, p. 768.
- ^ 浅見雅男 1994, p. 112.
- ^ 新田完三 1984, p. 174.
- ^ 新田完三 1984, p. 679.
- ^ 新田完三 1984, p. 593.
- ^ 新田完三 1984, p. 20.
- ^ 新田完三 1984, p. 506.
- ^ 新田完三 1984, p. 309.
- ^ 新田完三 1984, p. 619.
- ^ 新田完三 1984, p. 231.
- ^ a b 新田完三 1984, p. 702.
- ^ 新田完三 1984, p. 510.
- ^ 新田完三 1984, p. 718.
- ^ 新田完三 1984, p. 566.
- ^ 新田完三 1984, p. 736.
- ^ 新田完三 1984, p. 580.