足利義純

鎌倉時代初期の足利一族の武将、義兼の庶長子

足利 義純 / 畠山 義純(あしかが よしずみ / はたけやま よしずみ)は、鎌倉時代初期の足利一族の武将。源姓畠山氏岩松氏の祖。

 
足利 義純 / 畠山 義純
時代 鎌倉時代初期
生誕 承安4年(1174年
死没 承元4年10月17日1210年11月5日
別名 足利太郎(通称)、畠山義純
戒名 最乗寺一峰義空大居士
官位 従五位下遠江守左衛門少尉蔵人
幕府 鎌倉幕府
主君 源頼朝頼家実朝
氏族 足利氏畠山氏
父母 父:足利義兼
兄弟 義純桃井義助義氏桃井義胤
正室:来王姫新田義兼の娘)
継室:北条時政の娘、あるいは、時政女を所生とする畠山重忠の娘[1]
岩松時兼田中時朝泰国
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足利太郎[2]官位従五位下遠江守[2]左衛門少尉蔵人[2]

生涯

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承安4年(1174年)、足利義兼の長男として誕生した[3]。母は遊女(『尊卑分脈』)[3]。大伯父・新田義重新田荘で養育されたという。

元久2年(1205年)、畠山重忠北条氏により滅ぼされる(畠山重忠の乱[4]北条政子義時姉弟は、重忠の妻であった妹(北条時政の娘)を憐れみ、義純と婚姻させ、畠山名跡と跡式(所職)などを相続させた[4]

なお、義純は時政女を所生とする畠山重忠の娘と婚姻したという説もある。「津川本畠山系図」では、義純の三男・畠山泰国の項目に、「母平氏重忠むすめ」と記述されている[5]。また、「始称畠山母方氏也」「外祖父重忠遺領々之」とあり、重忠の遺領を与えられたのは、義純ではなく泰国であることと、畠山を名乗るようになったのは泰国からであることが読み取れる[5]

義純は元々従兄弟である新田義兼の娘・来王姫と結婚しており、時兼・時朝らを儲けていたが 、妻子と義絶しての継承であった。ただ、義純の生涯については不明な点も多く、来王姫も畠山重忠の乱以前に既に死去していた可能性もある。

また、新田氏からも畠山氏(正確には重忠の未亡人。また、異説として時政女を所生とする畠山重忠の娘)からも義純に所領が継承された形跡はなく、岩松時兼・田中時朝・畠山泰国のいずれもが母方から直接所領を継承して各々の家の祖となったもので、義純を岩松氏や源姓畠山氏の祖とするのは正しくないとする指摘もある[6]。さらに岩松氏の所領の中に畠山重忠の旧領由来と思われる武蔵国大里郡の所領が含まれているとの指摘がある[7]

これにより秩父平氏の流れを汲む畠山氏は、河内源氏の一系・足利一門として存続することになった。

承元4年(1210年)10月17日、死去[2]。37歳[2]。法号は、最乗寺一峰義空大居士[2]

脚注

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出典

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  1. ^ 竹村紘一「足利一族の基礎知識」『歴史研究』第576号、2009年、23頁。
  2. ^ a b c d e f 韮山町史編纂委員会 1995, p. 562.
  3. ^ a b 韮山町史編纂委員会 1995, p. 560.
  4. ^ a b 韮山町史編纂委員会 1995, p. 561.
  5. ^ a b 韮山町史編纂委員会 1995, p. 563.
  6. ^ 渡政和「鎌倉時代の畠山氏について」『埼玉県立歴史資料館研究紀要』第12・13号、1990・1991年。/所収:所収:清水亮 編『畠山重忠』戎光祥出版〈シリーズ・中世関東武士の研究 第七巻〉、2012年。ISBN 978-4-86403-066-3
  7. ^ 彦由三枝子「足利氏と畠山氏」『武蔵野』第81巻第2号、武蔵野文化協会、2005年。/所収:清水亮 編『畠山重忠』戎光祥出版〈シリーズ・中世関東武士の研究 第七巻〉、2012年。

参考文献

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  • 韮山町史編纂委員会 編『韮山町史』 第十巻《通史Ⅰ自然・原始・古代・中世》、韮山町史刊行委員会、1995年3月31日。NDLJP:9541049 (要登録)
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