軽大娘皇女
日本の皇族
生涯
編集允恭天皇の皇女。母は皇后の忍坂大中姫命(忍坂大中津比売命)。
『古事記』によれば大変に美しい女性であったため、その美しさが衣を通してあらわれるようだ、という意味を込めて「衣通郎女」(または「衣通王」)と呼ばれた[1]。
同母兄であった木梨軽皇子と情を通じ、それが原因となって允恭天皇の死後、木梨軽皇子は失脚、伊予国姫原へ流刑となる。軽大娘皇女はその後を追い、伊予の国で2人は自害して果てたという(衣通姫伝説)。
『日本書紀』においては2人の仲が発覚した直後の允恭天皇24年に軽大娘皇女本人だけが伊予姫原へ流されている。
また、同じ伊予国 現在の愛媛県四国中央市の妻鳥(めんどり)には「東宮陵」=東宮さんとも呼ばれる=があり、軽皇子はこの妻鳥村に流罪となり、この場所に居を構え、松山市姫原に流罪された軽大娘皇女とは一度も逢うことなく、この地で果てた。との伝説が残る。
脚注
編集- ^ 『日本書紀』では「衣通郎姫」と称されたのは忍坂大中姫の同母妹である弟姫とされている。