邦彦王妃俔子
日本の皇族
邦彦王妃 俔子(くによしおうひ ちかこ、1879年〈明治12年〉10月19日 - 1956年〈昭和31年〉9月9日)は、日本の旧皇族。久邇宮邦彦王の妃。島津忠義公爵令嬢。旧名は、島津 俔子(しまづ ちかこ)。皇籍離脱前の身位は王妃で、皇室典範における敬称は殿下であった。
久邇 俔子 (邦彦王妃 俔子) | |
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久邇宮妃 | |
続柄 | 島津忠義第8女子 |
全名 | 久邇 俔子(くに ちかこ) |
身位 | 王妃 →(皇籍離脱) |
敬称 | 殿下 →(皇籍離脱) |
出生 |
1879年10月19日 |
死去 |
1956年9月9日(76歳没) |
埋葬 | 日本・東京都文京区、豊島岡墓地 |
配偶者 | 久邇宮邦彦王 |
子女 |
久邇宮朝融王 久邇邦久(邦久王) 良子女王(香淳皇后) 三条西信子(信子女王) 大谷智子(智子女王) 東伏見慈洽(邦英王) |
父親 | 島津忠義 |
母親 | 山崎寿満子 |
役職 | 恩賜財団愛育会(現・恩賜財団母子愛育会)総裁 |
生涯
編集旧薩摩藩主の公爵・島津忠義八女。1898年(明治31年)4月12日、木曽川丸で妹・徳川正子と弟・島津忠重と神戸へ、汽車にて同年4月18日、旧新橋駅に着く[1]。1899年(明治32年)10月6日、久邇宮邦彦王と結婚[2]。3男3女をもうけた。また、「恩賜財団愛育会」(現・恩賜財団母子愛育会)の初代総裁を務めるなど、日本の児童や母性に関する研究の発展に尽力した。1947年(昭和22年)10月14日、皇室典範第11条1項により、朝融王ほか家族と共に皇籍離脱。皇籍離脱後は、「久邇 俔子(くに ちかこ)」となる。
血縁
編集系図
編集明仁の系譜 |
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栄典
編集- 1900年(明治33年)2月10日 - 勲二等宝冠章[3]
- 1906年(明治39年)4月1日 - 明治三十七八年従軍記章[4]
- 1910年(明治43年)2月11日 - 勲一等宝冠章[5]
- 1940年(昭和15年)8月15日 - 紀元二千六百年祝典記念章[6]
出典
編集- ^ しらゆき. 島津出版会刊
- ^ “『 親 王 ・ 諸 王 略 傳 』”. 2020年1月6日閲覧。
- ^ 『官報』第4982号、「叙任及辞令」明治33年2月13日(NDLJP:2948274)
- ^ 『官報』第7578号・付録、「辞令」明治41年9月28日
- ^ 『官報』第7989号、「叙任及辞令」明治43年2月12日(NDLJP:2951340/3)
- ^ 『官報』第4438号・付録「辞令二」1941年10月23日。