酒匂 (軽巡洋艦)
酒匂(さかは/さかわ)は、大日本帝国海軍の軽巡洋艦[15]。阿賀野型の4番艦である。名前は静岡県および神奈川県を流れる酒匂川からとられている[16]。太平洋戦争中に建造され、巡洋艦として日本で最後に竣工した艦となった。大戦末期の就役で主要な作戦に参加する機会はなく、舞鶴湾で無傷で終戦を迎えた[17](詳細は後述)。終戦後は復員船として活動した。アメリカ軍の原爆実験(クロスロード作戦)の標的艦となり、ビキニ環礁で核爆弾が直上で炸裂し、翌日沈没した。
酒匂 | |
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佐世保軍港における酒匂(1944年11月) | |
基本情報 | |
建造所 | 佐世保海軍工廠[1] |
運用者 | 大日本帝国海軍 |
艦種 | 二等巡洋艦 |
級名 | 阿賀野型 |
母港 | 横須賀 |
艦歴 | |
計画 | 1939年(④計画) |
起工 | 1942年11月21日[1] |
進水 | 1944年4月9日[1] |
竣工 | 1944年11月30日[1] |
除籍 | 1945年10月5日[2] |
その後 | 標的艦としてクロスロード作戦に使用され1946年7月2日沈没[2] |
要目 | |
基準排水量 | 計画 6,651英トン[3] または 6,652英トン[1] |
公試排水量 |
計画 7,710トン[1] 実際 7,894.71トン[4] |
満載排水量 |
計画 8,338.4トン[3] 実際 8,533.52トン[4] |
全長 | 174.50m[1] |
水線長 | 172.00m[1] |
垂線間長 | 162.00m[1] |
最大幅 | 15.20m[1] |
深さ | 10.17m[1] |
吃水 |
公試平均(計画) 5.63m[3][1] 公試平均(実際) 5.71m[5] |
ボイラー | ロ号艦本式重油専焼缶(空気余熱器付)6基[1] |
主機 | 艦本式高中低圧タービン4基[1] |
推進 | 4軸[1] |
出力 | 計画 100,000hp[1] |
速力 | 計画 35ノット[1] |
燃料 | 計画 重油 1,420トン[1] |
航続距離 | 計画 6,000カイリ / 18ノット[1] |
乗員 | 計画乗員 700名 + 司令部26名[6] |
兵装 |
50口径15cm連装砲 3基6門 [7] 九八式8cm連装高角砲2基4門 [7] 25mm機銃 3連装10基 同 単装機銃18挺、据付台座13基(竣工時)[8] 同 単装機銃21挺(最終時平時推定)[9] 同 単装機銃31挺(最終時戦時推定)[9] 九二式四連装発射管四型2基8門[10][注釈 1] 九三式一型改一魚雷16本[10] 爆雷投下軌道2本[11] 九五式爆雷18個[10] |
装甲 |
計画[12] 機関部舷側 60mmCNC鋼、甲板 20mmCNC鋼 弾火薬庫舷側55mmCNC鋼、甲板20mmCNC鋼 舵取機室舷側 30mmCNC鋼、甲板20mmCNC鋼 操舵室舷側 30mmCNC鋼 |
搭載艇 |
平時[13] 11m内火艇1隻 9mカッター1隻 |
搭載機 | 計画 水偵2機[14] |
レーダー |
21号電探1基[8] 22号電探2基[8] 13号電探1基[8] |
その他 | 呉式二号五型射出機1基[14] |
艦歴
編集建造
編集酒匂は1942年(昭和17年)11月21日、仮称艦名「第135号艦」として佐世保工廠で起工した[18]。1944年(昭和19年)4月1日、第135号艦は酒匂と命名され[15]、同日附で軍艦籍に入った[19]。4月9日に進水し、同日附で横須賀鎮守府の在籍となった[20]。 8月28日、佐世保工廠に酒匂艤装員事務所を設置した[21]。11月10日、酒匂艤装員事務所は閉鎖され[22]、艤装員長の大原利道大佐が艦長となった[23]。
竣工と配属
編集酒匂は11月30日に竣工した[24]が、この時点で同型艦の 阿賀野と能代が沈没しており、阿賀野型4隻が同時にそろうことはなかった。同日、連合艦隊附属となり[25]、佐世保から呉に回航した[26][27][28]。12月11日、第十一水雷戦隊旗艦となった[29]。1945年1月15日、第十一戦隊に編入[30]。
阿賀野型軽巡洋艦は水雷戦隊の旗艦として優れた性能を備えていたが、酒匂が就役した1944年末には、軽巡洋艦と駆逐艦が主体となる艦隊同士の水雷戦の機会は事実上失われていた。一方で日本海軍は同年に潜水艦や航空機による攻撃で駆逐艦の喪失が増大し、新造艦の早期戦線投入と兵員の練成が急務となっていた。当時の第十一水雷戦隊はこうした艦艇と兵員の訓練を目的に編制されており[31]、酒匂の編入当時は松型駆逐艦や秋月型駆逐艦を主力とし、回天搭載母艦に改造された軽巡洋艦北上や駆逐艦響も一時的に所属した[32][33]。
終戦まで
編集1945年(昭和20年)3月、戦艦大和を中心とする残存の主力艦艇で沖縄に突入する天一号作戦が発令された。酒匂は同型艦の矢矧と共に作戦に加わる予定だったが、直前になって酒匂の出撃は中止となった。その後は呉や瀬戸内海の八島で駆逐隊の訓練に従事した。4月1日、第二艦隊に編入[30]。4月20日、連合艦隊第十一戦隊に編入[30]。
坊ノ岬沖海戦で敗れた日本海軍は太平洋及びアジア上での大規模な作戦行動が不可能になり、主要な港湾部には機雷投下と空襲の危険が迫った。呉に残る行動可能な艦艇の一部は根拠地を移すことになり、5月21日、酒匂と駆逐艦柿、菫、楠、桜、楢、欅が呉を出港[34]。門司で桜、楢、欅と分かれ、舞鶴へ向かった[34]。航海中、触底してスクリューに軽微な損傷を受けた[35]。5月27日、4隻は舞鶴に到着した[36]。
しかしアメリカ軍は日本海側を含む主要な港湾を機雷で封鎖する作戦を開始し、5月16日には宮津湾、5月20日には舞鶴湾でB-29による最初の機雷投下が行われた[37]。このため第十一水雷戦隊は空襲を誘発しないよう艦艇の軍港内の停留を避けた上で七尾湾への移動が検討され[38]、当面の措置として6月1日に酒匂と柿、菫、楠、駆逐艦雄竹が機雷未投下の小浜湾に移動した[38][39]。その後の酒匂は燃料不足のため、陸上から電気を引き、ボイラーの火は消された状態となった。6月25日には小浜湾にも機雷が投下された[37]。
燃料が窮迫して組織的な艦隊運用は困難になっており、7月15日に第十一水雷戦隊は解隊され[40][41]、「酒匂」は舞鶴鎮守府部隊に編入[30]。酒匂は特殊警備艦に指定され[42]、7月19日に再び舞鶴湾に回航されたが、空襲の標的となる港内を避けて舞鶴市佐波賀の海岸に係留固定され[43]、対空兵装を陸揚げした上で[44]、甲板上に樹木を立てるなど入念な擬装を施した[45][46]。擬装した藁に引火する恐れがあるため、対空射撃も禁止されたという[46]。
7月30日の舞鶴・宮津空襲では港湾に在留した艦船も攻撃対象となり、駆逐艦初霜が擱座、潜水母艦長鯨の艦橋に着弾するなどの大きな被害が出たが、酒匂は損害を受けず、擬装状態のまま無傷で終戦を迎えた。酒匂は1945年10月5日に除籍された[17]。
- 酒匂の終戦時の所在については当時、舞鶴海軍工廠富山分工場にいた福井静夫らが舞鶴港外としている[17][47][48]一方で、1945年6月25日から終戦までを七尾湾とする文献もある[49]。第十一水雷戦隊の戦時日誌によると、酒匂は6月1日から7月15日まで小浜湾内に在泊し[50]、七尾湾へ回航した記録はない。7月19日に小浜から舞鶴に移動後は一部兵装を降ろして擬装し、軍艦としての運用は困難になった。7月30日の舞鶴空襲時、佐波賀に係留された酒匂を米軍機が撮影している。終戦直後の8月17日に舞鶴港に入港した向日丸の乗員は、佐波賀で樹木で擬装した酒匂を目撃している[51]。
復員輸送
編集1945年(昭和20年)12月1日、酒匂は特別輸送艦に指定された。釜山、南洋諸島、ニューギニア、台湾などを航海し、復員輸送に従事した。阿賀野型巡洋艦の定数乗組員約900名に対しこの時点の酒匂には約300名しか乗艦しておらず、武装を撤去し甲板に居住区やトイレが設置された[52]。武装については、主砲は砲塔を残し砲身のみ撤去、その他に高角砲、魚雷発射管、機銃、各射撃指揮装置、探照燈、射出機、13号電探、22号電探なども撤去された[53]。乗員の不足を補うため予科練出身の井出定治など軍艦で勤務したことのない者まで集められたが、秩序は維持されていた。外国海軍の将校が乗り込むこともあったが、大原艦長は敬礼を求めた豪州海軍の少尉に対し「こっちは大佐だ」とやり返したという[54]。
また北海道の函館港から朝鮮半島・釜山港へ、朝鮮半島出身労働者(約1000名)を送り届けたこともあった[55]。当時の乗組員の手記によれば、この時、士官居住区解放を求める朝鮮半島出身労働者と酒匂の乗組員との間に対立が起こった[56]。だが、酒匂が沖合いに出て猛烈な時化に襲われると彼らは船酔いに悩まされ、交渉は取りやめとなった[57]。この時、朝鮮系労働者が航海中甲板の至るところで嘔吐・排便排尿をしたため、彼らが下艦した後、その処理に酒匂の乗員は泣かされることになったという[58]。また釜山港の埠頭には多数の民衆が集まって朝鮮人労務者を歓迎し、英雄として迎え入れた[55]。目撃した岩松(酒匂航海士)は繰り返される万歳に複雑な想いを抱き、強い印象を受けたと回想している[55]。
ビキニ環礁へ
編集1946年(昭和21年)2月11日、大原艦長(第二復員官)は元空母の特別輸送艦葛城艦長に転任し[59]、酒匂の就役から復員が終了するまで一代限りとなった酒匂艦長の職務を全うした。2月25日、酒匂は特別輸送艦の指定を解除された[60]。その後、核実験(クロスロード作戦)の標的艦として戦艦長門などとともに、横須賀でアメリカ海軍に引き渡された[61]。日本海軍乗員による操縦指導が東京湾で行われたが、意思疎通不足によって主蒸気管が閉鎖されないまま巡航タービンのクラッチが切られた[注釈 2]。無負荷となった巡航タービンは規定回転数を超えて暴走し、その轟音を聞いた日本兵とアメリカ兵はあわててタービン室から逃げだして事なきを得た。結果タービン1基が破損し3軸運転となった。操縦指導は20日間に渡って実施された。ビキニ環礁への移動に2名の日本兵の添乗が求められたが、日本兵が断ったためアメリカ海軍兵員によってのみ行われた。後にこの日本兵はビキニについていけばよかったと後悔している[注釈 3]。
1946年7月1日 ビキニ環礁で行われたクロスロード作戦にともなう核実験(A-実験 空中爆発)では、酒匂は目標艦ネバダの約500~600m地点に配置されていた[62]。だが爆心地点がずれ、ほぼ上空で原子爆弾が爆発した。その強力な爆風により艦橋より後方の構造物は、前方へなぎ倒された[63][64]。艦尾部分は24時間近く炎上し、また艦尾にも亀裂が生じて浸水がはじまった[62]。酒匂は7月2日、浅瀬への曳航作業中に左舷へ傾斜し始め艦尾から沈没した[62]。現在は水深60mの海底に沈んでいる[65]。
歴代艦長
編集※『艦長たちの軍艦史』175-176頁に基づく。
艤装員長
編集艦長
編集同型艦
編集脚注
編集注釈
編集- ^ 梅野和夫#阿賀野型の航空兵装によると九二式四連装発射管一型。
- ^ アメリカと日本のタービンの操作手順の違いによって、この誤動作は起きた
- ^ 原爆実験のことは教えられていなかった
出典
編集- ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s #昭和造船史第1巻784-785頁。
- ^ a b #写真日本の軍艦第9巻p.105。
- ^ a b c 「二等巡洋艦 一般計画要領書 附現状調査」2頁の計画値「註.上記ノモノハ昭和十四年十月十三日艦本機密決第五三八号ニ依ル基本計画当初ノモノヲ示ス」。
- ^ a b #JapaneseCruisersp.565, TABLE 11.7.
- ^ #JapaneseCruisersp.563.
- ^ 「二等巡洋艦 一般計画要領書 附現状調査」22頁。
- ^ a b 「二等巡洋艦 一般計画要領書 附現状調査」4頁。
- ^ a b c d 「あ号作戦後の巡洋艦兵装状況一覧表」#世界巡洋艦物語p.356。
- ^ a b c #矢萩登p.24。「1/200酒匂甲板敷物配置図」からの推定。
- ^ a b c 「二等巡洋艦 一般計画要領書 附現状調査」6頁。
- ^ #JapaneseCruisersp.604下の写真による。
- ^ 「二等巡洋艦 一般計画要領書 附現状調査」20頁。
- ^ #JapaneseCuisersp.593
- ^ a b 梅野和夫#阿賀野型の航空兵装
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- ^ #S1906十一水戦(4)p.61『総長|戰編着艦|十一月三十日 一.酒匂ヲGFニ附属/二.椿ヲ11sdニ編入』
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- ^ #S1906十一水戦(5)pp.53-54『一四(天候略)響、第一訓練部隊編入』-『二五(天候略)響7dgニ編入』
- ^ #内令昭和20年1月(3)p.46『内令第六七號 驅逐隊編制中左ノ通改定セラル 昭和二十年一月二十五日|第七驅逐隊ノ項中「潮、」ノ下ニ「響、」ヲ加フ』
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- ^ #S1906十一水戦(7)p.53『(司令官)11S(宛略)機密第二七一三三番電 酒匂二十六日〇九〇〇北九州水道通過時觸底右舷外軸推進器翼先端部湾曲セリ戰斗航海ニ差支ヘナシ』
- ^ #S1906十一水戦(7)p.38
- ^ a b 舞鶴空襲
- ^ a b #S1906十一水戦(7)p.54
- ^ #S1906十一水戦(8)p.5
- ^ #S1906十一水戦(8)p.34『一五|将旗ヲ徹ス』
- ^ 「昭和20年7月25日(発令7月15日付)海軍辞令公報(甲)第1867号 p.9」 アジア歴史資料センター Ref.C13072106400
- ^ 「昭和20年7月25日(水)海軍公報第5079号 p.1」 アジア歴史資料センター Ref.C12070505800 『横須賀鎮守府豫備艦 軍艦 酒匂 右特殊警備艦ト定ム』
- ^ #舞廠造機部の昭和史369頁『麾下の艦艇とともに舞鶴へきて、平から佐波賀へ続く海岸の入り組んだところにひっそりと係留された。』
- ^ 宮津空襲「酒匂でも対空砲火を船から取り外し、陸上部に対空砲火を移設して、船をカモフラージュし港湾の防衛 に当たっていました。私の恩師が配属されていた25mm.三連装高角機銃も舞鶴空襲時には、陸上部に移設されていました。」
- ^ #舞廠造機部の昭和史370頁『「酒匂」はやがてすべての砲座を下ろし、海岸に固定して網をかぶせ、木の枝葉などで擬装した。』『「酒匂」と同じように甲板上にカモフラージュの樹木を植えた。』
- ^ a b #軽巡二十五隻246頁
- ^ #日本巡洋艦物語333頁『舞鶴港外の島かげに疎開したが、幸運にもまったく無キズで終戦を迎えた。』
- ^ #写真太平洋戦争10巻135頁『最終的には舞鶴港外の島影に偽装繋留され、無傷で終戦を迎えた。』
- ^ #艦長たちの軍艦史176頁『6月25日、七尾湾に待避して終戦をむかえた。』
- ^ #S1906十一水戦(8) p5,p27
- ^ 硝煙の海『その際、佐波賀の岸に船形の枯れ木の小山を目撃し、双眼鏡で確認したら軍艦のようであった。われわれは命からがら帰還したのに、敵と対戦せず隠れていることに不信を抱かざる得なかった。数日後、該軍艦が舞鶴に入港してきたので「酒匂」と確認。たまたま親友に同艦乗り組みの方が居るので取材した概要を以下に記す。』『結局「酒匂」は燃料不足で実戦に参加すること無く舞鶴へと回航され、終戦を迎えた。当時日本海側の各港湾も米軍投下機雷で薄氷の海だったが、幸い若狭湾の小浜港に着いたものの隠れる場所もなく、舞鶴向け機雷の海を17ノットで突破し、隠れ場所を佐波賀に設定した。カムファージには艦全体に網を張り、乗組員がその上に山の成木を伐採して覆った。当時、日本海側にも米艦載機の跳梁があったが、発見されずに生き残り唯一の軍艦となった。』
- ^ 井川聡『軍艦「矢矧」海戦記』412-413頁「復員航海」
- ^ #軽巡阿賀野型・大淀51頁の写真と解説、#JapaneseCruisersp.574 Photo 11.3, p.575 Photo 11.4, p.604 Photo11.10など戦後に撮られた写真による。
- ^ 井川聡『軍艦「矢矧」海戦記』414頁
- ^ a b c #軽巡二十五隻249-250頁『第三話 朝鮮出身者送還』
- ^ 井川聡『軍艦「矢矧」海戦記』416頁
- ^ 井川聡『軍艦「矢矧」海戦記』417頁
- ^ 井川聡『軍艦「矢矧」海戦記』417-418頁、「軍艦『酒匂』始末記」
- ^ a b 「昭和21年3月8日付(発令2月11日)第二復員省辞令公報(甲)第78号 p.21」 アジア歴史資料センター Ref.C13072158700
- ^ #公報昭和21年3月p.1『内令第三二號|元驅逐艦 冬月、元第百九十六號海防艦 右特別輸送艦トシ佐世保地方復員局所管ト定ム|横須賀地方復員局所管 特別輸送艦 酒匂 右特別輸送艦ヲ解ク|昭和二十一年二月二十五日 第二復員大臣』
- ^ #軽巡二十五隻253-254頁『異郷に眠る新鋭艦への思慕』
- ^ a b c #終戦と帝国艦艇80頁
- ^ 井川聡『軍艦「矢矧」海戦記』418頁「屈辱の日」
- ^ #終戦と帝国艦艇84頁『(70)酒匂 原爆実験後の被害写真』
- ^ Kevin Denlay Collection…長門の写真もあり
- ^ 「昭和19年9月28日(発令9月25日付)海軍辞令公報(部内限)第1604号 p.38」 アジア歴史資料センター Ref.C13072101000
参考文献
編集- アジア歴史資料センター(公式)(防衛省防衛研究所)
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- 井川聡『軍艦「矢矧」海戦記 建築家・池田武邦の太平洋戦争』(光人社、2010年)ISBN 978-4-7698-1479-5
池田武邦(矢矧航海士。終戦時、大尉)は復員船「酒匂」に分隊長として勤務。 - 外山操『艦長たちの軍艦史』光人社、2005年。ISBN 4-7698-1246-9
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- 福井静夫『福井静夫著作集第8巻 世界巡洋艦物語』光人社、1994年。ISBN 4-7698-0656-6。
- 『軽巡 阿賀野型・大淀』 丸スペシャル 日本海軍艦艇シリーズNo.5、潮書房、1976年。
- 雑誌『丸』編集部 編『写真 日本の軍艦 第9巻 軽巡II』光人社、1990年。ISBN 4-7698-0459-8。
- 梅野和夫『阿賀野型の航空兵装』、112-113頁。
- (社)日本造船学会 編『昭和造船史(第1巻)』(3版)原書房〈明治百年史叢書 第207巻〉、1981年(原著1977年)。ISBN 4-562-00302-2。
- 呉市海事歴史科学館 編『日本海軍艦艇写真集 巡洋艦』ダイヤモンド社、2005年。ISBN 4-478-95059-8。
- 矢萩登『矢萩登の素晴らしき艦船模型の世界』大日本絵画、2010年6月。ISBN 978-4-499-23021-6。
- 「二等巡洋艦 一般計画要領書 附現状調査」
- 福井静夫『日本巡洋艦物語 福井静夫著作集/第四巻-軍艦七十五年回想記』光人社、1992年10月。ISBN 4-7698-0610-8。
- 雑誌「丸」編集部編『写真 太平洋戦争 第10巻 潜水艦作戦 終戦時の帝国艦艇』光人社、1995年8月。ISBN 978-4-7698-2092-5。
- 岡本孝太郎『舞廠造機部の昭和史』文芸社、2014年5月。ISBN 978-4-286-14246-3。
- 雑誌「丸」編集部『ハンディ版 日本海軍艦艇写真集 15 軽巡川内型・阿賀野型・大淀・香取型』光人社、1997年、ISBN 4-7698-0816-X
- 103-105ページ、落合康夫「軽巡洋艦『阿賀野・能代・矢矧・酒匂』行動年表」
外部リンク
編集- 軍艦『酒匂』始末記:戦中、戦後に乗艦した阿部達氏の手記
- 硝煙の海:終戦期に朝鮮半島から舞鶴港に戻った向日丸乗員菊池金雄氏による酒匂の記録
- 宮津空襲 - ウェイバックマシン(2019年1月1日アーカイブ分):舞鶴空襲時の酒匂乗員の記載がある
- 旧軍関連・戦前資料収載品(帝國海軍の軍装品) 特別編:戦後復員船となった酒匂・山野平機関長の貴重な記録