里の秋
『里の秋』(さとのあき)は、日本の童謡。作詞は斎藤信夫、作曲は海沼實。童謡歌手の川田正子が歌い、1948年(昭和23年)、日本コロムビアよりSPレコードが発売された。
「里秋」 | |
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川田正子 の シングル | |
B面 | 夢のお橇 |
リリース | |
規格 | シングルレコード(SP盤) |
ジャンル | 童謡 |
レーベル |
日本コロムビア (規格品番:A349) |
作詞・作曲 |
作詞:斎藤信夫 作曲:海沼實 |
概要
編集1945年(昭和20年)12月24日、ラジオ番組『外地引揚同胞激励の午后』の中で、引揚援護局のあいさつの後、川田正子の新曲として全国に向けて放送された。
放送直後から多くの反響があり、翌年に始まったラジオ番組『復員だより』[1]の曲として使われた。
1番ではふるさとの秋を母親と過ごす様子、2番では出征中の父親を夜空の下で思う様子、3番では父親の無事な復員(ここでの椰子の島、船という言葉から父親は南方軍麾下の部隊にいることが窺える)を願う母子の思いを表現している。
2003年(平成15年)にNPO「日本童謡の会」が全国約5800人のアンケートに基づき発表した「好きな童謡」で第10位に選ばれた[2]。
「里の秋」と「星月夜」
編集「星月夜」(ほしづきよ)は、斎藤信夫がまだ国民学校の教師をしていた1941年(昭和16年)12月に作られた。1番から4番までの歌詞で、後に童謡の雑誌に掲載された。太平洋戦争の始まりを報せる臨時ニュースに高揚感を覚え、その思いを書き上げたと言われている。
1、2番は「里の秋」と同じ歌詞だが、続く後半の3、4番は「父さんの活躍を祈ってます。将来ボクも国を護ります」という様な内容で締めくくられている。早速、童謡にしてもらうため海沼實に送ったものの、曲が付けられる事はなかった。
やがて終戦を迎え、海沼は放送局から番組に使う曲を依頼され、要望に合った歌詞を探して見つけたのが「星月夜」だった。そのままの歌詞では使えないと判断した海沼は、斎藤に東京まで出てくるように電報を打つ。戦争で戦う様に教えていた事に責任を感じた斎藤は、終戦後、教師を辞めていた。電報を受けた斎藤はすぐに海沼に会いに行き、「星月夜」の歌詞を書き変える作業を始めたがなかなか進まず、曲名が「里の秋」に変えられたのも放送当日だった。
ヒットの背景
編集終戦当時、日本の国民のうち、外地と呼ばれる地域にいた民間人と軍人は約660万人と言われている。戦後の混乱もあって、外地の日本人との連絡は難しく、特に満州、樺太、千島列島にいた兵士や民間人は行方が分からなかった。彼らがシベリアに抑留されていると外務省が知ったのは、翌1946年(昭和21年)のAP通信であった。
引揚者らは日本への航路がある港に殺到したため、引揚げ船・復員船は常に超満員だった。運良く乗船できても、暗く狭い船倉は衛生状態も悪く、快適ではなかったらしい。
本土に上陸しても、列車内は買い出し等で大きな荷物を持った人でごった返し、列車のわきにぶら下がったり、屋根に座ったりする人が多かった。列車とすれ違う時や、SLの煙が充満したトンネル内では大変な思いであった(肥薩線列車退行事故)。また、潜水艦に船が撃沈される等、まさに命がけの引揚げであった。
引揚者を受け入れる内地は、戦火で焼けた都市部の住宅不足に加え、急激なインフレーション、物資不足、深刻な食糧難にみまわれていた。
- 住宅不足
- 1945年(昭和20年)3月10日の東京大空襲から始まる全国各都市を狙った空襲で、全国の家屋の15%が失われたと言われる。その他にも建物疎開で減っていたり、引揚者の住む住居が不足したりしていた。人々はバラックを建てたり、親戚の家に間借りして文字通り肩身の狭い思いをしていた。
- インフレ
- 1947年(昭和22年)7月時点で、一般物価は戦前(1934(昭和9) - 1936年(11年)の平均)の65倍、米価は32倍と政府が発表。また、1946年(昭和21年)8月の厚生省の調査結果では標準家庭1ヵ月の収入504円40銭に対し、支出が844円80銭であった。
- 物資不足
- 空襲による破壊の他、外地からの供給停止、物流がうまく機能できなかった事も影響した。前年には東南海地震、三河地震という2つの大地震も発生していた。
- 食糧難
- 1945年(昭和20年)は農村の人手不足に加え、とても寒い冬で、米の収穫量が前年の68.8%と大凶作であった(収穫期には枕崎台風や大雨が被害を大きくしている)。
この時代は一日一日を生きる事に必死であり、父親が無事に帰る事が希望だった家庭も少なくなかった。
反響が大きかった事をふまえると、上記のような世相の中、「里の秋」は年の瀬の人々の心を慰めたと考えられる。
参考文献
編集脚注
編集関連項目
編集- 白鷺山公園 - たつの市が全国公募した「あなたの好きな童謡」の上位8曲の一つとして、公園内の「童謡の小径」に歌碑が在る。
- リンゴの唄 - 当時の大ヒット歌謡曲。
- みかんの花咲く丘 - 斎藤の作詞ではないが、作曲:海沼、歌:川田の組み合わせによる1946年(昭和21年)のヒット作。海沼が「1回放送するためだけの歌」と作詞者に持ちかけ、放送日当日に完成するという構図が似ている。
- テレサ・テン - 作詞家の莊奴による中国語の歌詞で、「又見炊烟」(yòu jiàn chuī yān。「かまどの煙がまた昇る」の意)のタイトルで歌った。この曲は今でも歌い継がれる曲となり、日本でも著名な王菲や伍芳等のアーティストもこの曲をカバーした。
- 山武市(千葉県) - 斎藤が教師をしていた成東町の城跡公園に歌碑が建てられている(1982年(昭和57年))ほか、市町村防災行政無線のチャイムとして里の秋を採用している。歌とは関係ないが、終戦直前アメリカ軍の関東上陸に備え、近衛第3師団が置かれた。この城跡公園からはコロネット作戦の上陸地点の一つ、九十九里浜が見える。
- いすみ市(千葉県) ‐ 海沼が疎開していた岬町岩熊地区に「童謡の里」として、歌碑が建立されている。
- みんなの童謡
外部リンク
編集- 里の秋 - YouTube(歌:山野さと子)
- 童謡の研究 - ウェイバックマシン(2005年1月23日アーカイブ分)(里の秋の制作秘話)
- Home Page 銀の櫂(斎藤信夫と成東町の様子について)
- 戦時下に喪われた日本の商船 - archive.today(2013年4月27日アーカイブ分)(星月夜の制作秘話)
- 社会実情データ図録(引揚者の人数について)