長岑高名
長岑 高名(ながみね の たかな)は、平安時代初期の貴族。氏姓は白鳥村主のち長岑宿禰。従五位下・長岑茂智麻呂の義弟。官位は正四位下・右京権大夫。
時代 | 平安時代初期 |
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生誕 | 延暦13年(794年) |
死没 | 天安元年9月3日(857年9月24日) |
官位 | 正四位下・右京権大夫 |
主君 | 嵯峨天皇→淳和天皇→仁明天皇→文徳天皇 |
氏族 | 白鳥村主→長岑宿禰 |
出自
編集経歴
編集平安京の右京出身。成人と同時に大学へ入学し、弘仁5年(814年)文章生に補せられる。若い頃は義兄・茂智麻呂に養われていたが、家は貧しく全く蓄えがなかった。専ら文友と付き合い、義兄と深く親交したという[2]。
弘仁12年(821年)式部少録に任ぜられたのち、民部少録・少内記を歴任する。家が貧しかったことから地方官への任官を望み、天長元年(824年)安房掾に任ぜられる。清廉で正直な性格で、私心を忘れて公務を務めたという[2]。天長7年(830年)右少史、天長9年(832年)左少史、天長10年(833年)左大史と、淳和朝末から仁明朝初頭にかけて太政官の史を務めた。また、天長年間に白鳥村主から長岑宿禰に改姓している。
承和2年(835年)外従五位下・大膳亮兼美作権介に叙任される。同年2月に遣唐准判官に任ぜられるが、承和3年(836年)・承和4年(837年)と二度に亘り渡航に失敗する。この間、破損した修理舶使次官に任ぜられ、破損した遣唐使船の修理も担当した。承和5年(838年)三度目の渡航でようやく渡唐に成功する。遣唐大使・藤原常嗣に従って第一船に乗船し、大使からは船上の雑事への対応を委ねられたという[2]。また、同年4月には難波三津浜において、内位の従五位下に叙せられている。なお、遣唐副使・小野篁は病気を理由に渡唐を拒否しており、長安では副使が不在であったことから、高名が代わりに宮中へ上がることを許されている。帰国に際しては渡航ルートを巡って常嗣と対立するが、高名の主張が通された[3]。
承和6年(839年)日本に帰国し、従五位上・次侍従次いで伊勢権介に叙任されるが、伊勢権介を務めた際は民衆の要望に非常に沿った統治を行った[2]。翌承和7年(840年)正月に正五位下、同年8月に勅により平安京に呼び戻され、嵯峨院別当に任ぜられて山城守を兼ねた。承和9年(842年)嵯峨上皇の崩御に伴い阿波守に転任し、翌承和10年(843年)伊勢守として再び伊勢国に赴任するが、在任6年の間国司としての統治に対する名声が高かったという[2]。その後も嘉祥3年(850年)播磨守と地方官を務める傍ら、承和15年(848年)従四位下、仁寿元年(851年)従四位上、仁寿4年(854年)正四位下と、仁明朝末から文徳朝にかけて順調に昇進した。
斉衡2年(855年)右京権大夫に転じ、斉衡3年(856年)山城守を兼ねた。天安元年(857年)9月3日卒去。享年64。最終官位は正四位下右京権大夫兼山城守。
人物
編集地方官として厳正で公明な行政を行い、百姓が秩序を乱して騒ぎ立てるようなことがなかった。我が家は清貧で蓄えがないため、自らが死んでも必ず薄葬にするようにと、普段より子孫に命じていたという[2]。
官歴
編集『六国史』による。
- 弘仁5年(814年) 日付不詳:文章生
- 弘仁12年(821年) 正月:式部少録。日付不詳:民部少録
- 弘仁13年(822年) 日付不詳:少内記
- 天長元年(824年) 正月:安房掾
- 天長年間:白鳥村主から長岑宿禰に改姓[4]
- 天長7年(830年) 2月:右少史
- 天長9年(832年) 正月:左少史
- 天長10年(833年) 11月:左大史
- 時期不詳:正六位上。美作権掾
- 承和2年(835年) 正月7日:外従五位下。2月2日:遣唐准判官。2月:大膳亮。5月13日:兼美作権介
- 承和3年(836年) 4月30日:従五位下(内位)
- 承和4年(837年) 9月21日:修理舶使次官
- 承和6年(839年) 9月28日:従五位上。日付不詳:次侍従。10月25日:伊勢権介
- 承和7年(840年) 正月7日:正五位下。8月:嵯峨院別当。8月22日:兼山城守
- 承和9年(842年) 6月:阿波守
- 承和10年(843年) 正月12日:伊勢守
- 承和11年(844年) 2月8日:兼斎宮権頭
- 承和15年(848年) 正月7日:従四位下
- 嘉祥3年(850年) 正月15日:播磨守
- 仁寿元年(851年) 11月26日:従四位上
- 仁寿4年(854年) 正月7日:正四位下
- 斉衡2年(855年) 2月15日:右京権大夫兼山城権守
- 斉衡3年(856年) 正月12日:兼山城守
- 天安元年(857年) 9月3日:卒去(正四位下右京権大夫兼山城守)