隗純
隗 純(かい じゅん、? - 42年)は、中国の後漢時代初期の武将・政治家。涼州天水郡成紀県(現在の甘粛省天水市秦安県)の人。父は隴右[1]の群雄の一人の隗囂。兄弟は隗恂だが、兄・弟のいずれに当たるかは不明。
事跡
編集姓名 | 隗純 |
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時代 | 後漢時代 |
生没年 | 生年不詳 - 42年(建武18年) |
字・別号 | 〔不詳〕 |
本貫・出身地等 | 涼州天水郡成紀県 |
職官 | 〔不詳〕 |
爵位・号等 | 朔寧王〔蜀〕 |
陣営・所属等 | 隗囂→公孫述→光武帝 |
家族・一族 | 父:隗囂 兄弟:隗恂(兄?弟?) |
父の隗囂は、当初は光武帝陣営に属していたが、対立の末に蜀(成家)の公孫述に服従して朔寧王に封じられ、光武帝と抗争した。しかし、部下を切り崩され、要地も占領されるなど劣勢に陥り、最後は建武9年(33年)春正月に、冀城(天水郡)にて困窮し死去した。
隗純は父を後継し、やはり天水郡に拠って光武帝への抵抗を続けた。これを支える部下には王元・周宗・行巡・高峻・苟宇・趙恢らが健在で、しかも公孫述の部将である田弇・趙匡の援護もあったため、依然として漢にとって侮れない勢力であった。
これに対して光武帝は、同年秋8月に、中郎将来歙に、征西大将軍馮異・建威大将軍耿弇・虎牙大将軍蓋延・揚武将軍馬成・武威将軍劉尚を率いさせ、天水へと侵攻させた。両軍による戦いは、以後1年余りに渡って継続する。
建武10年(34年)夏、天水郡で趙匡が馮異に敗れ戦死したが、隗純らは、その後の漢軍による冀城への攻撃は何とか凌いだ。同年8月、第一城(安定郡高平県)を守備していた高峻が、力尽きて漢の寇恂に降伏した。そして同年10月、落門聚(天水郡冀県)で隗純は来歙に大敗し、部下共々ついにここで全面降伏した。ただ、王元のみが、蜀の公孫述の下へ逃れている。こうして隴右は漢により平定されたのであった。
後に建武18年(42年)、隗純は賓客と漢を逃亡。胡族と結び、武威郡に至るも捕縛され誅された。
脚注
編集- ^ 中国の北西部で、隴山の西部(南面して隴山の右手側にあるので隴右)。隴西県・隴西郡はあるが、隴右県や(宋代のわずかな例を除いて)隴右郡は無いように、通称である。
参考文献
編集- 『後漢書』列伝3隗囂伝
- 同本紀1下光武帝紀下
- 同列伝5来歙伝
- 同列伝7馮異伝