高倉永祜

江戸時代後期の公卿

高倉 永祜(たかくら ながさち)は、江戸時代後期の公卿高倉永胤の子。官位正三位高倉家21代当主。

 
高倉 永祜
時代 江戸時代後期
生誕 天保9年11月16日1839年1月1日
死没 慶応4年7月29日1868年9月15日
官位 正三位
主君 孝明天皇
氏族 高倉家
父母 父:高倉永胤、母:飛鳥井雅光の娘
千鶴(広橋光成の娘)
坊城初子(坊城俊明の娘)
永則南坊城良興[1]、卯三麿[2]
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経歴

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安政2年(1855年)家督を継ぎ、侍従に任官。

慶応2年(1866年)、従三位

同4年(1868年)、戊辰戦争の勃発に伴い、北陸道鎮撫総督に就任し、若狭国酒井忠禄の兵を先鋒として越前加賀越中越後へと軍をすすめた。また、山縣有朋黒田清隆を参謀として登用し、鯨波戦争に勝利する。その後会津征討総督を兼務し、後に奥羽征討越後口総督となり奥羽列藩同盟の討伐へ向かった。

越後高田で病没、享年31。

系譜

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  • 父:高倉永胤
  • 母:飛鳥井雅光の娘
  • 妻:千鶴 - 広橋光成の娘
  • 妻:坊城初子 - もとこ。坊城俊明の六女
    • 長男:高倉永則(1864-1947)
    • 次男:南坊城良興(1865-1940)
  • 生母不明の子女
    • 男子:卯三麿

脚注

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  1. ^ 土師神社(現道明寺天満宮)宮司
  2. ^ 東京文理科大学名誉教授

参考文献

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