鬼頭鍋三郎
1899-1982, 洋画家
略歴
編集- 1899年 愛知県愛知郡千種町の地主の家に次男として生まれる。[3]
- 1916年 名古屋商業学校を卒業し、明治銀行に入行[4]。
- 1921年 明治銀行を退職[4]。
- 1923年 上京し、親交のあった 冨澤有爲男との縁により岡田三郎助に師事。松下春雄と美術グループ「サンサシオン」結成。
- 1924年 辻永に師事。帝展に出品。
- 1931年 光風会会員。1934年帝展特選。
- 1942年 呉淞上陸作戦の記録画を依頼され中国に渡る。
- 1943年 「小休止」で陸軍大臣賞受賞。(戦後は日展に出品)
- 1944年 従軍画家として戦地に赴任[1]。
- 1952年 日展運営会参事。
- 1953年 中部日本新聞社文化賞受賞[5]。
- 1954-1955年 渡欧。イタリア、オランダ、アメリカ等を漫遊した後帰国。[3]
- 1956年 日本芸術院賞受賞。
- 1958年 日展評議員。
- 1963年 日本芸術院会員、日展理事。
- 1968年 愛知県立芸術大学教授( - 1973年)[1]。
- 1969年 日展常務理事。
- 1970年 勲三等瑞宝章受章。光風会理事長就任( - 1980年)[1]。
- 1975年 日展顧問。
人物
編集代表作である「舞妓」シリーズが大変有名である。当時から舞妓を題材にした画家は多数いたが、鬼頭はそういった人物には珍しく、大変遠慮深く、常にモデルに気を使い、ポージング等も注文こそすれ、強制することは決してなかったと言う。そのため、同じモデルの舞妓でも、鬼頭の時は気楽で良いと言う妓も多かったと言う。また、シリーズの創作には年二回、正月と祇園祭の折に「祇園 桝梅」を2日間だけ必ず訪れていた。また、かなりのヘビースモーカーで、常にパイプを離さなかったが、晩年に心臓に病気を患ってからはきっぱりとやめたと言う。また、若さの秘訣として、老人クラブや敬老会などで同世代同士で馴れ合うことを嫌い、若い世代と付き合い、気持ちを常に若くしておくことを心がけていたと言う。また、30を過ぎた頃から創作を昼間だけにし、歳をとるにつれ早寝早起きが習慣的になった。こういったこともあり、当時としては82歳と言う比較的長寿であった。[3]
作品
編集作品名 | 技法 | 形状・員数 | 寸法(縦x横cm) | 所有者 | 年代 | 出品展覧会 | 落款・印章 | 備考 |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|
画室 | キャンバス油彩 | 162.4×131.0 | 刈谷市美術館 | 1934年(昭和9年) | 第22回光風会 | |||
花の前のN嬢 | キャンバス油彩 | 90.8×72.8 | 刈谷市美術館 | 1941年(昭和16年) | ||||
銃後 | キャンバス油彩 | 90.8×73.0 | 刈谷市美術館 | 1942年(昭和17年)頃 | ||||
呉淞鉄道桟橋附近戦闘図 | キャンバス油彩 | 186.5x247 | 愛知縣護國神社 | 1943年(昭和18年)頃[6] | ||||
幸部隊小休止 | キャンバス油彩 | 額1面 | 129.7×192.5 | 東京国立近代美術館保管(アメリカ合衆国無期限貸与) | 1943年(昭和18年) | 陸軍美術展 | 陸軍大臣賞受賞 | |
前線における畑、岡村両最高指揮官 | キャンバス油彩 | 額1面 | 185.0×255.0 | 東京国立近代美術館保管(アメリカ合衆国無期限貸与) | 1945年(昭和20年) | 戦争記録画展 | ||
舞姿 | キャンバス油彩 | 72.2×53.2 | 刈谷市美術館 | 1981年(昭和56年) | 第67回光風会展 |
関連項目
編集脚注
編集外部リンク
編集- 鬼頭鍋三郎 - 東京文化財研究所
- 『鬼頭鍋三郎』 - コトバンク
- 『鬼頭 鍋三郎』 - コトバンク