鷲尾隆聚
幕末から明治にかけての公家
鷲尾 隆聚(わしのお たかつむ、1843年1月25日(天保13年12月25日) - 1912年(明治45年)3月4日)は、幕末から明治期の公家。
鷲尾 隆聚 | |
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生年月日 | 1843年1月25日 |
出生地 | 京都 |
没年月日 | 1912年3月4日(69歳没) |
称号 |
伯爵 勲二等瑞宝章 |
在任期間 | 1870年2月27日 - 1871年8月4日 |
在任期間 | 1871年8月4日 - 1873年5月30日 |
在任期間 | 1873年5月30日 - 1875年10月15日 |
在任期間 | 1882年9月9日 - 1887年3月3日 |
経歴
編集右近衛中将鷲尾隆賢の次男として京都で生まれる。母は高倉永雅の娘。勤王倒幕運動に身を投じ、慶応3年12月12日(1868年1月6日)、志士を集めて高野山で挙兵し、紀州藩を恭順させた(高野山挙兵)。奥州追討総督・陸軍少将として戊辰戦争を転戦し明治維新を迎えた。
剣術を好み、自邸に明鏡館という道場を開いた。1883年(明治16年)、宮内省済寧館御用掛に就任。1884年(明治17年)、山岡鉄舟とともに剣槍柔術永続社を設立し、社長を務めた。
エピソード
編集理財に疎いところがあり、負債を抱えて剣槍柔術永続社は解散した。あるとき東久世通禧から貴族院議員になることを勧められたが、「政治に通ぜざる者が、二千円の歳費を得るため、貴族院に入ろうとする者があれば、自分はその面に唾しよう。自分はたとえ餓死しようとも、かくの如き陋態をまなばず」と答えた。
官職
編集栄典
編集親族
編集脚注
編集- ^ 『官報』第307号「叙任及辞令」1884年7月8日。
- ^ 『官報』第1828号「叙任及辞令」1889年8月2日。
- ^ 『官報』第7841号「叙任及辞令」1909年8月13日。
- ^ 『官報』第8558号「叙任及辞令」1911年12月28日。
- ^ a b c 『人事興信録 初版』 353頁(国立国会図書館デジタルコレクション)
- ^ a b c d 『人事興信録 3版』 ワ61頁(国立国会図書館デジタルコレクション)
- ^ 『人事興信録 第14版 下』 ワ22頁(国立国会図書館デジタルコレクション)
参考文献
編集日本の爵位 | ||
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先代 叙爵 |
伯爵 鷲尾家初代 1884年 - 1912年 |
次代 鷲尾隆信 |