- 当年より競輪にもグレード制が導入され、KEIRINグランプリは、グレード制の頂点を意味する、『GP』格付けとなった。当レースはその元年である。またこの前年までの開催西暦年の下2桁は日本語読み(例・1999年なら「きゅうじゅうきゅう」。2000年だけ例外で4桁の「にせん」)であったが、この年から開催西暦年下2桁は記事冒頭にも書いたとおり、英語読みになった。
- 当年11月下旬より、三連勝単式(三連単)投票券が導入された他、従来より発売されている車番二連勝単式(車単)、枠番二連勝複式(枠複)の各賭式に加え、枠番二連勝単式(枠単)、車番二連勝複式(車複)、三連勝複式(三連複)、ワイド(拡大二連勝複式)の各種投票券も発売されることになり、当レースも以上7賭式の発売が実施された。但し、当レースの車単、枠複以外の賭式が発売されている競輪場(場間場外発売)、専用場外は、平塚競輪場を含めても、ごく限られていた。
- GP単独の売上は、82億9995万0400円[6](本場21億6993万2500円、場外61億3001万7900円[7])。目標の90億円には、届かなかった。
- シリーズ全体の目標額は180億円だったが、シリーズ三日間の売り上げは181億3106万8800円と目標を上回った。
- 1984年の競輪祭より使用されてきたユニフォームを着用して行われた、最後のグランプリとなった。
- 小橋正義は岡山、新潟の両登録地所属でグランプリ出場を果たした。複数の登録地でグランプリ出場を果たした最初の事例である。
- 今回で神山雄一郎のGP連続出場(11回)が途絶えた(3年後に再出場)。
- 優勝の伏見俊昭は、当年9月にオールスター競輪(岐阜競輪場)を制した1週間後、ベルギー、アントウェルペンで開催された世界自転車選手権・ケイリンの予選で落車し、鎖骨を骨折。一時は当レース出場が危ぶまれたが、幸いにも回復が早かったことと、リハビリを兼ねたトレーニングの効果が出て、史上4人目となる、初出場初優勝(第1回を除く)を果たした。また、坂本勉(1990年)と太田真一(1999年)に続く、3例目の「逃げ」の決まり手による優勝だった。