KEIRINグランプリ01(けいりんぐらんぷりぜろわん)は、2001年12月30日<>に平塚競輪場神奈川県平塚市)で開催されたKEIRINグランプリである。優勝賞金7000万円[1]

KEIRINグランプリ01
平塚競輪場・GP
周長:400m みなし直線:54.2m
周長:400m みなし直線:54.2m
レース詳細
開催日 2001年12月30日(
レース結果
優勝 [5] 伏見俊昭(初) (福島)
2位 [2] 山田裕仁 (岐阜)
3位 [8] 稲村成浩 (群馬)

出場選手

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車番 選手 出身 選考理由
1 神山雄一郎 栃木 獲得賞金3位
2 山田裕仁 岐阜 獲得賞金5位
3 高木隆弘 神奈川 第52回高松宮記念杯競輪優勝
4 濱口高彰 岐阜 第17回全日本選抜競輪優勝
 5  伏見俊昭 福島 第44回オールスター競輪優勝
6 岡部芳幸 福島 獲得賞金8位
 7  小橋正義 新潟 第10回寛仁親王牌杯優勝
8 稲村成浩 群馬 第54回日本選手権競輪優勝
 9  児玉広志 香川 KEIRINグランプリ2000優勝

競走内容

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[3]

競走結果

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車番 選手 決まり手
1  5  伏見俊昭 逃 
2 2 山田裕仁
3 8 稲村成浩
4 4 濱口高彰
5 6 岡部芳幸
6 3 高木隆弘
7  9  児玉広志
8  7  小橋正義
9 1 神山雄一郎

配当金額

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車番二連勝単式 5-2 6,400円
三連勝単式 5-2-8 85,040円

エピソード

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  • 前年GP覇者が無条件出場できる制度は、今回で最後。翌年のKEIRINグランプリ02でのGPP制度は1回で終了、KEIRINグランプリ03から獲得賞金での出場枠が1つ増えることとなった。
  • 大会17回目にして、初めて日曜日の開催となった。
  • 当年より競輪にもグレード制が導入され、KEIRINグランプリは、グレード制の頂点を意味する、『GP』格付けとなった。当レースはその元年である。またこの前年までの開催西暦年の下2桁は日本語読み(例・1999年なら「きゅうじゅうきゅう」。2000年だけ例外で4桁の「にせん」)であったが、この年から開催西暦年下2桁は記事冒頭にも書いたとおり、英語読みになった。
  • 当年11月下旬より、三連勝単式(三連単)投票券が導入された他、従来より発売されている車番二連勝単式(車単)、枠番二連勝複式(枠複)の各賭式に加え、枠番二連勝単式(枠単)、車番二連勝複式(車複)、三連勝複式(三連複)、ワイド(拡大二連勝複式)の各種投票券も発売されることになり、当レースも以上7賭式の発売が実施された。但し、当レースの車単、枠複以外の賭式が発売されている競輪場(場間場外発売)、専用場外は、平塚競輪場を含めても、ごく限られていた。
  • 地上波中継は、テレビ東京TXN系列 全23局ネット》が放送。また、この年は二日目に行われたヤンググランプリ01もテレビ東京制作で中継されている(テレビ東京[注 1]が、ヤンググランプリを中継したのはこの年のみ)。
  • GP単独の売上は、82億9995万0400円[6](本場21億6993万2500円、場外61億3001万7900円[7])。目標の90億円には、届かなかった。
  • シリーズ全体の目標額は180億円だったが、シリーズ三日間の売り上げは181億3106万8800円と目標を上回った。

競走データ

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  • 1984年競輪祭より使用されてきたユニフォームを着用して行われた、最後のグランプリとなった。
  • 小橋正義は岡山、新潟の両登録地所属でグランプリ出場を果たした。複数の登録地でグランプリ出場を果たした最初の事例である。
  • 今回で神山雄一郎のGP連続出場(11回)が途絶えた(3年後に再出場)。
  • 優勝の伏見俊昭は、当年9月にオールスター競輪岐阜競輪場)を制した1週間後、ベルギーアントウェルペンで開催された世界自転車選手権・ケイリンの予選で落車し、鎖骨骨折。一時は当レース出場が危ぶまれたが、幸いにも回復が早かったことと、リハビリを兼ねたトレーニングの効果が出て、史上4人目となる、初出場初優勝(第1回を除く)を果たした。また、坂本勉(1990年)と太田真一(1999年)に続く、3例目の「逃げ」の決まり手による優勝だった。

脚注

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注釈

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  1. ^ 系列局では、2007年まで放送された。

出典

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関連項目

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外部リンク

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