グベールニヤロシア語губерния)は、18世紀から20世紀初頭までロシア帝国に設置された地方行政区画である。首長である県知事ロシア語губернатор グベルナートル)によって統括される。 日本語の訳語としては、「県」があてられることが多いため、本項では、以下「県」と記述する。

1708年設置の県
1848年、1878年のロシア帝国
ロシア帝国のヨーロッパ部(20世紀初頭)
ロシア帝国のアジア部(20世紀初頭)

ピョートル1世期の地方行政制度

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地方行政組織としての県が最初に制定されたのは、ピョートル1世の時代である。1708年12月18日の勅令(указ)により、インゲルマンランド県(1710年からサンクトペテルブルク県)、モスクワ県、アルハンゲロゴロド県(1780年からアルハンゲリスク県)、スモレンスク県キエフ県カザン県アゾフ県シベリア県の8県が設置された。

1719年には、県の行政機構について法制化が行われ、県の数も23まで増設された。県の首長には、県知事(グベルナートル)が置かれ、インゲルマンランド県、アゾフ県では総督(наместник ナメーストニク)が置かれた。県知事には、行政、政治、財政、司法の機能だけでなく、有事おける軍事的指揮権が与えられた。

また、県の下部組織として郡(провинциядистрикт プロヴィンツィヤ、ジストリクト)が設置され、プロヴィンツィヤの首長としてヴォエヴォダвоевода)、ジストリクトの首長としてゼムスキー・コミッサール(земский комиссар)が置かれた。

エカチェリーナ2世期の地方行政制度

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エカチェリーナ2世期のロシアでは、1773年プガチョフの乱から、地方に対する統制強化の必要性が認識されており、 1775年には、後の地方行政制度の基礎となる制度改革が実施された。

1775年に制定された「全ロシア帝国の県行政に関する設置法」では、県の設置基準を、人口30万人から40万人とし、20県が40県に分割された。また、強力な行政権を有する総督管区(наместничество ナメストニチェストヴォ)、総督府(генерал-губернаторство ゲネラール・グベルナートルストヴォ)が導入され、しばしば複数の県を管轄下に置いた。また、県の下部組織として郡(уезд ウイェースト)が設置されると共に、旧来の郡(プロヴィンツィヤ)は廃止された。

また、県行政の官僚機構が整備され、県知事を補佐する県副知事(вице-губернатор ヴィツェ・グベルナートル)や、郡の首長である郡警察本部長(капитан-исправник カピタン・イスプラーヴニク)が設置された。また、総督や県知事を監督する高等監察官(генерал-прокурор ゲネラール・プロクロール)も導入された。県行政の多くのポストは、貴族身分から任命されるものと規定された。

1796年12月31日の元老院の決定では、総督府の権限は、従来の県と同様に格下げとなり、再び県が設置された。また、県の下部組織として郡(ウイェースト)、郡の下部組織として郷(волость ヴォーロスチ)が設置された。またこの時期、総督管区の廃止も行われた。

19世紀から20世紀初頭までの地方行政制度

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19世紀には、地方行政機関は、ロシア内地と辺境地域で異なる制度が導入され、集権化、官僚制の強化が図られた。ヨーロッパ部にあるロシア内地には県が設置され(1860年時点で51県)、法制上県に認められている全ての権限が与えられた。一方で、沿バルト3県を除く辺境諸県には、総督府(ゲネラール・グベルナートルストヴォ)が設置された。19世紀後半から20世紀初頭にかけて、辺境地域には、これ以外に県に相当する20の州(область オーブラスチ)が設置された。

1860年代に始まるアレクサンドル2世大改革により、地方自治、都市行政、司法の制度改革が実施され、地方行政組織や司法組織に対して、有産者による公選制が導入された。ヨーロッパ・ロシアの34県には、地方自治体であるゼムストヴォが導入され地方経営にあたった。都市部には市会(городская дума ゴロドスカーヤ・ドゥーマ)、および市参事会(городская управа ゴロドスカーヤ・ウプラーヴァ)が導入された。

1890年代のトルストイ内相による「反改革」時代には、こうした自由主義的な公選制が批判の対象となり、1889年には任命制の地方牧民官(земский начальник ゼムスキー・ナチャーリニク)が設置され、ゼムストヴォ(1890年)、都市行政(1892年)に対しても、貴族身分団体の影響力を強化する制度改定が行われた。 1907年から1910年に首相を務めたストルイピンは、地方行政に対する統制を強化し、秘密警察(オフラーナ)や貴族身分団体の役割を強化した。

ロシア革命後の地方行政制度

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1917年のロシア2月革命後、臨時政府は県知事の名称を県コミッサールと改称したのみで、実際の組織機構には手を付けなかった。一方で、ソヴィエト政権による地方組織の掌握も平行して行われ、各地に地方ソヴィエトが設立された。

10月革命後、郡以下の下部機関は温存されたものの、県の行政機関は、県ソヴィエトгубернский совет)に選出された県執行委員会(губисполком (губернский исполнительный комитет) グビスポルコム)に取って代わられた。

また、ブレスト=リトフスク条約により、1917年にロシア国内に設置されていた78県のうち25の県は、ポーランドフィンランドバルト諸国としてロシアから分離した。1918年から1929年の間は地方行政制度も変更され、1929年には、州(область オーブラスチ)、管区(округ オークルク)、地区(район ラヨーン)に再編された。

現在のロシアでは、県(グベールニヤ)という用語は使われていないが、область オーブラスチ)または地方край クライ)の首長のことを知事(グベルナートル)と呼んでいる。

関連項目

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