三昧
サマーディ(Samadhi)の音写である三昧(さんまい、サンスクリット語: समाधि、samādhi)は、仏教、ヒンドゥー教、ジャイナ教、シーク教、ヨーガなどインド発祥の宗教における瞑想で、精神集中が深まりきった状態のことをいう。三摩地(さんまぢ)、三摩提とも音訳され、定、等持と義訳される[1]。
ヒンドゥー教用語 サマーディ | |
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英語 | Samadhi |
サンスクリット語 |
समाधि) (IAST: samādhi) |
日本語 | 三昧, 三摩地, 三摩提, 定, 等持 |
→仏教におけるサマーディについては「定」を参照
語源
編集サマーディの語は「組み合わせ」という原義から「心を等しく持すること」の意に転じたもので、サマーパッティ (samāpatti, 等至) とも意味内容はほぼ同じとされる[1]。
インドでは聖者の入滅をサマーディと表現する[1]。
漢訳における意訳
編集Samādhi を意訳したものとして、以下のような言葉がある。
- 定 - 心を一処に定めて動くことがない、の意。
- 正受 - 正しく所観の法を受ける、の意。
- 調直定 心に暴を調え、心の曲がるのを直し、心が散るのを定める、の意。
- 正心行処 - 心の動きを正して、法に合わせるための依処である、の意。
- 息慮凝心 - :縁慮を止めて心念を凝結する、の意。
『摩訶止観』において
編集仏教
編集→詳細は「定」を参照
ヒンドゥー教
編集→詳細は「en:Samādhāna」を参照
ヒンドゥー教ヨーガ学派経典のヨーガ・スートラでは、三昧とは静慮があたかも客体のみになって自体が空になったかのような状態であると定義される[1][2]。ヨーガ・スートラでは以下のように、「有想(うそう)三昧」と「無想(むそう)三昧」(第1章17-18節)、「有種子(うしゅし)三昧」と「無種子(むしゅし)三昧」(第1章41-51節)の別が説かれている[3]。
- 有想三昧(サンプラジュニャータ・サマーディ)
- 尋(ヴィタルカ)、伺(ヴィチャーラ)、楽(アーナンダ)、我想(アスミター)の意識対象が伴っている三昧[3]。
- 無想三昧(アサンプラジュニャータ・サマーディ)
- 行(サンスカーラ)だけが残っている三昧[3]。
俗用
編集- 他の名詞の後に付いて「-ざんまい」と連濁化し、一心不乱に事をするさま(例:読書三昧)や、むやみやたらにしたがるさま(例:贅沢三昧)を表す[4]。
- 平安時代以来、火葬場のことを三昧(さんまい)といった[5]。三昧場(さんまいば)は、墓地、火葬場、もしくは死者の冥福を祈るために墓地の近くに設けた堂などを指す[6][4]。元は天台宗における法華三昧や源信の念仏結社「二十五三昧講」に由来すると言われ、いずれも葬送の際に念仏が唱えられたことに由来すると考えられている。平安時代後期には「三昧」の語が用いられている(『中右記』保安元年9月26日条)。中世から近世にかけては火葬や土葬、墓地の管理に携わる三昧聖と呼ばれる民間宗教者の存在が確認できる[7]。
脚注
編集注釈
編集出典
編集- ^ a b c d 山下博司 『ヨーガの思想』 講談社〈講談社メチエ〉、2009年、127-129頁。
- ^ a b c 立川武蔵 『ヨーガの哲学』 講談社〈講談社学術文庫〉、2013年、88-93頁
- ^ a b c d 成瀬貴良 『ヨーガ事典』 BABジャパン、2010年、160-161頁
- ^ a b 新村出(編)『広辞苑』(第三版)岩波書店、1986年10月、1010頁。
- ^ “火葬場(カソウバ)とは - コトバンク”. 朝日新聞社. 2017年8月9日閲覧。
- ^ “三昧場(サンマイバ)とは - コトバンク”. 朝日新聞社. 2017年8月9日閲覧。
- ^ 新谷尚紀「三昧(2)」『日本歴史大事典 2』小学館、2000年、ISBN 978-4-095-23002-3 P318.
関連項目
編集外部リンク
編集- Digital Dictionary of Buddhism (log in with userID "guest")