傀儡子
傀儡子(くぐつし、くぐつ、かいらいし)とは、木偶(木の人形)またはそれを操る部族のことで[3]、流浪の民や旅芸人のうち狩猟と傀儡(人形)を使った芸能を生業とした集団、後代になると旅回りの芸人の一座を指した語。傀儡師とも書く。また女性の場合は傀儡女(くぐつ め)ともいう。西宮発祥のものは正月に家々を廻ったことから冬の季語。
概略
編集平安時代(9世紀)にはすでに存在し、散楽などをする集団として、それ以前からも連綿と続いていたとされる。平安期には雑芸を演じて盛んに各地を渡り歩いたが、中世以降、土着して農民化したほか、西宮などの神社の散所民(労務を提供する代わりに年貢が免除された浮浪生活者)となり、えびす舞(えびすまわし、えびすかき)などを演じて、のちの人形芝居の源流となった[3]。
平安時代には、狩も行っていたが諸国を旅し、芸能によって生計を営む集団になっていき、一部は寺社普請の一環として、寺社に抱えられた「日本で初めての職業芸能人」といわれている。操り人形の人形劇を行い、女性は劇に合わせた詩を唄い、男性は奇術や剣舞や相撲や滑稽芸を行っていた。呪術の要素も持ち女性は禊や祓いとして、客と閨をともにしたともいわれる。傀儡女は歌と売春を主業とし、遊女の一種だった[4][5]。
寺社に抱えられたことにより、一部は公家や武家に庇護された。後白河天皇は今様の主な歌い手であった傀儡女らに歌謡を習い、『梁塵秘抄』を遺したことで知られる。また、青墓宿の傀儡女、名曳(なびき)は貴族との交流を通じて『詞花和歌集』にその和歌が収録された[6]。
傀儡子らの芸は、のちに猿楽に昇華し、操り人形はからくりなどの人形芝居となり、江戸時代に説経節などの語り物や三味線と合体して人形浄瑠璃に発展し文楽となり[7]、その他の芸は能楽(能、式三番、狂言)や歌舞伎へと発展していった。または、そのまま寺社の神事として剣舞や相撲などは、舞神楽として神職によって現在も伝承されている。
慶長18年1月15日(1613年3月6日)、夷舁の藤原吉次(監物)が浄瑠璃太夫として朝廷から「河内目」の受領名を与える宣旨を受けた。傀儡子が朝廷から受領名を認められたことはその地位の向上につながり、宝永5年(1708年)に京都の傀儡子・小林新助が、穢多頭の弾左衛門によって興業を妨害された件で江戸町奉行に訴えた際に、源頼朝の朱印状なる書類を提出して傀儡子支配の正統性を主張する弾左衛門に対して小林は藤原吉次の先例を引用して傀儡子は受領名を与えられる身分で被差別身分ではないことを主張し、町奉行は天皇の宣旨は臣下である頼朝の朱印状を破るとして小林の勝訴を宣言、これによって傀儡子や歌舞伎に対する弾左衛門の支配権は否認されることになった[8]。
寺社に抱えられなかった多くも、寺社との繋がりは強くなっていき、祭りや市の隆盛もあり、旅芸人や渡り芸人としての地位を確立していった。寺社との繋がりや禊や祓いとしての客との褥から、その後の渡り巫女(歩巫女、梓巫女、市子)として変化していき、そのまま剣舞や辻相撲や滑稽芸を行うもの、大神楽や舞神楽を行う芸人やそれらを客寄せとした街商(香具師・矢師)など現在の古典芸能や幾つかの古式床しい生業として現在も引き継がれている。
傀儡子集団の源流
編集「傀儡」は中国語で人形を意味し、中国の偶人戯(人形劇)の人形も傀儡子と呼ばれる[3]。「くぐつ」という音は、日本語古語説、中国語説、中国語経由の朝鮮語説など諸説ある[9]。
「奈良時代の乞食者の後身であり、古代の漁労民・狩猟民である」とする林屋辰三郎説、「芸能を生地で中国人か西域人に学んだ朝鮮からの渡来人である」とする滝川政次郎説、「過重な課役に耐えかねて逃亡した逃散農民である」とする角田一郎説などがある[4]。
また、平安時代の文人、大江匡房の『傀儡子記』に日本民族とは異なる習俗であるとあり、インドからヨーロッパに渡ったジプシーと同源で、インドから中国・韓国経由で日本に来た浮浪漂泊の民族とする奇説もある[10]。白柳秀湖は、大江匡房の『傀儡子記』の記述から、「傀儡子」は大陸のジプシーが中国・朝鮮などを経て渡来した漂泊の民族であるが、「傀儡師」は時代が下り、その芸能を受け継いだ浮浪の人々であり民族的なものではない、としている。
『傀儡子記』
編集1087年[12]に大江匡房によって書かれたもので、漢文体320文字程度の小品だが[13]、当時の傀儡子たちがどのような生活様式をもち、どのように諸国を漂泊していたかがうかがわれる数少ない資料となっている。傀儡子集団は定住せず家もない、水草を追って流れ歩き、北狄(蒙古人)の生活によく似ているとし、皆弓や馬ができて狩猟をし[5]、2本の剣をお手玉にしたり七つの玉投げなどの芸、「魚竜蔓延(魚龍曼延)の戯」といった変幻の戯芸、木の人形を舞わす芸などを行っていたとある[4]。魚龍曼延とは噴水芸のひとつで、舞台上に突然水が噴き上がり、その中を魚や竜などの面をつけた者が踊り回って観客を驚かせる出し物である[14]。
また、傀儡女に関しては、細く描いた眉、悲しんで泣いた顔に見える化粧、足が弱く歩きにくいふりをするために腰を曲げての歩行、虫歯が痛いような顔での作り笑い、朱と白粉の厚化粧などの様相で[4]、歌を歌い淫楽をして男を誘うが、親や夫らが気にすることはなく、客から大金を得て、高価な装身具を持ち、労働もせず、支配も受けず安楽に暮らしていると述べ、東海道の美濃・三河・遠江の傀儡女がもっとも美しく、次いで山陽の播磨、山陰の但馬が続き、九州の傀儡女が最下等だと記す[5]。なお、大江匡房は『遊女記』も著しており、「遊女」と「傀儡女」はどちらも売春を生業とするものの、区別して捉えていたとされる。
ゆかりの場所
編集画像
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一筆斉文調「からくり御伽傀儡師」
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田中組神楽車のからくり人形「傀儡師」
関連作品
編集脚注
編集- ^ えべっさんのまち散策西宮流観光案内所
- ^ 『川柳江戸砂子』西濃印刷會社岐阜出版部 -
- ^ a b c <404 お探しのページが見つかりません>古要神社の傀儡子の細男舞と神相撲田原久、国立劇場『日本の民俗劇と人形芝居の系譜』、1968年[リンク切れ]
- ^ a b c d 服藤早苗「傀儡女の登場と変容 : 日本における買売春」『埼玉学園大学紀要. 人間学部篇』第10巻、埼玉学園大学、2010年12月、436(31)-421(46)、CRID 1050001337998386048、ISSN 13470515。
- ^ a b c くぐつ『遊女の時代色 : 趣味史談』武田完二 著 (大同館書店, 1934)
- ^ 『新撰十訓抄』田中健三著 (東林書房, 1931)
- ^ 文楽の歴史独立行政法人日本芸術文化振興会
- ^ 間瀬久美子『近世朝廷の権威と寺社・民衆』吉川弘文館、2022年、315-316,388-389頁。ISBN 9784642043489。国立国会図書館書誌ID:031989373 。
〈底本〉間瀬久美子『近世朝廷の権威と神社・民衆』総合研究大学院大学〈博士(文学) 甲第2212号〉、2021年。 NAID 500001500581 。 - ^ 山口建治『方相・傀儡・郭禿・鍾馗 -「天籟」もう一つの身体技法-』(レポート)神奈川大学21世紀COE プログラム研究推進会議〈非文字資料から人類文化へ ―研究参画者論文集―〉、2008年、27-37頁。hdl:10487/6727 。
- ^ 『医事雑考竒珍怪』田中香涯著 昭和14
- ^ 筒井功『サンカの起源 クグツの発生から朝鮮半島へ』河出書房新社、2012年6月15日
- ^ 近藤直也「徳島県下における岐神信仰に関する言説 : 1970年代から2000年にかけて」『九州工業大学大学院情報工学研究院紀要. 人間科学篇』第26号、九州工業大学大学院情報工学研究院、2013年3月、13頁、CRID 1050001337448405120、hdl:10228/4924、ISSN 21853878。
- ^ 「大江匡房の『傀儡子記』の全文を読みたい。」(近畿大学中央図書館) - レファレンス協同データベース 2013年03月25日
- ^ 魚龍曼延の戯とは何か『日本民族文化史考』白柳秀湖著 (文理書院, 1947)
- ^ にしのみや 歴史見聞録 傀儡師故跡(産所町) 人形操り発祥の地西宮市、2011年5月10日
- ^ 『日本操り人形史: 形態変遷・操法技術史』加納克己、八木書店, 2007
- ^ 田中組神楽車 「傀儡師」~船弁慶SEISYSTEM、2012/05/24
関連事項
編集外部リンク
編集- ジプシーと傀儡子『日本民族文化史考』白柳秀湖著 (文理書院, 1947年)
- 庶民の文化 - 西宮の傀儡師『淡路地方史: 一郷土史家の考察』大江恒雄、文芸社、2003年
- 陳平伝説中国都市芸能研究会『都市芸研』第五輯/郃陽木偶戯初探、2006年