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2006年9月13日 (水) 13:04 (UTC)





イラン語群

アラブ征服後のイラン語群

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濃緑色: イラン系言語が公用語の国。青緑色: 準公用語または事実上これに匹敵する地域

7世紀はじまるアラブ大征服によって、イスラーム政権に組み込まれた旧サーサーン朝やソグドといったイラン・中央アジアの諸地域では、以後イラン諸語の地位が大きく変わった。権威ある文体を特徴としたパフラヴィー語と呼ばれるサーサーン朝の公用語であった中世ペルシア語ソグド語などに代わり、アラビア語がこれらの地域でも行政や宗教、学問の言葉として使用されるようになった。かつて一方言であったダリー語が宮廷の公用語となった。この間にアラビア文字の使用がイスラーム支配地域の各地で広まり、9世紀頃までにはイラン東部のホラーサーン地方と中央アジアで話されていたペルシア語の方言をもとに、アラビア語の語彙とアラビア文字表記を用いた文章語が成立する。これを特に「近世ペルシア語」と呼び、現在一般的に「ペルシア語」と称するのはこれである。当時のペルシア語は「ダリー」とも称したが、この「ダリー」という名称は門扉を意味する「ダル」( در dar)から派生し「宮廷」を意味する「ダルバール」 (دربار darbār) に由来し、この宮廷には詩人・要人・文学のパトロンが文化を花咲かせた(ペルシャ文学参照)。875年のダリー語の公用語化はサッファール朝とを特徴づける出来事でるが、ペルシア語文芸の最初の興隆はホラーサーンから中央アジア一体を領有したサーマーン朝の首都ブハラの宮廷であった。ウマイヤ朝アッバース朝による中央アジア遠征とイラン方面からのアラブ諸部族や旧サーサーン朝系の人々の入植の結果、現地のソグド系の人々も徐々にアラビア語やペルシア語の素養を身につけていった。サーマーン朝などでペルシア語文芸が隆盛していくが、一方でパルティア語やソグド語などはイブン・スィーナーなどの記録では11世紀頃まで中央アジアの諸都市の郊外の言葉として存続していたものの、この頃既に天山ウイグル王国以外では文章語としてほぼ消滅した。パフラヴィー語はゾロアスター教徒の言葉として生き続ける。8世紀イブン・アル=ムカッファー10世紀イブン・アン=ナディームなど中世イランの学者がイスファハーンからアゼルバイジャン古アゼルバイジャン語参照)に至る北西地方の方言を記述するさい「パフラヴィー」という名称を用い、東部ホラーサーン地方の方言を「ダリー」という名称に関連づけていることから、パフラヴィー語は西部地域の方言を基にしており、対照的にダリー語は東部地域の方言の影響が強かったらしい。なお「パールスィー」(ペルシャ語)はファールス地方の方言をさしている。この新しい公用語は現代標準ペルシャ語の祖形となった。王朝固有の言語はフーゼスターンの方言であると記述されている。

イスラム征服の副産物にはアラビア文字のペルシャ語表記への使用がある。そのさいペルシャ語の音素にあわせて数文字が追加された。これはおそらく8世紀後半のことで、以後中世アラム文字は次第に使われなくなった。アラビア文字は現代ペルシャ語でも使われている。タジク語はその後ソヴィエトの国家政策により1920年代にはラテン文字が使われ、1930年代になるとソ連邦中央アジアの政府計画によりキリル文字が使われた。

イラン語群の諸言語が話される地域は異言語社会の侵入を受けてきた。イラン西部のフーゼスターンの一部ではアラビア語が話されるようになり、現在トルクメニスタンウズベキスタンタジキスタンがある中央アジアの広域で従来のソグド語バクトリア語にかわりトルコ系諸語が普及した。アゼルバイジャンでもペルシャ系言語に代わりトルコ系言語がつかわれるようになった。

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