国事詔書
国事詔書 (こくじしょうしょ、ラテン語: sanctio pragmatica / pragmatica sanctio、ドイツ語: Pragmatische Sanktion)は、ヨーロッパ史上で君主が発した、第一級の重要事について国家の基本法に匹敵する効力を発揮する詔書、勅令。特に神聖ローマ帝国後期に神聖ローマ皇帝が発したものが有名である。理想的な状況が維持できなくなり、支配体制の転換に迫られた際に発された傾向がある。
年代を特定せず固有名詞として使われる場合は1713年の国事詔書(プラグマティッシェ・ザンクツィオン)を指すことが多い。これは神聖ローマ皇帝カール6世が、オーストリア大公位とハプスブルク家の領土を永久不可分とし、女系子孫の相続権の保証を取り決めたものである[1]。
著名な国事詔書
編集- 国事詔書 (554年): 東ローマ皇帝ユスティニアヌス1世が発布。ゴート戦争終結後のイタリアを再編した。
- 国事詔書 (1269年): フランス王ルイ9世が、同年3月に種々の聖職者改革を企図して発布したとされる。実際は15世紀に制作された偽文書。
- ブールジュの国事詔書: フランス王シャルル7世が、1438年7月7日に発布。フランス国内における教会への教皇の影響力を制限した。
- 国事詔書 (1439年): ドイツの諸侯が、同年3月26日にバーゼル公会議の内容の一部を修正したうえで受け入れることを表明した文書。なおこれは諸侯の上に立つ神聖ローマ皇帝の承認を受けたものではないので、「国事詔書」と呼ぶべきか否か議論がある。
- 国事詔書 (1549年): 神聖ローマ皇帝カール5世が発布。ネーデルラント17州を不可分な一つのハプスブルク家世襲領とした。
- 国事詔書 (1713年): 神聖ローマ皇帝カール6世が、同年4月19日に発布。自身が男子なく死んだ場合、ハプスブルク家世襲領(オーストリア大公国、ボヘミア王国、ハンガリー王国など)を一体とし、また女子継承(すなわち娘のマリア・テレジアへの継承)を可能にする家憲として制定された。
- 国事詔書 (1712年): オーストリアでの国事詔書に先立ち、クロアチア王国議会でクロアチア王位のハプスブルク家女系・女性継承が承認された。
- 国事詔書 (1723年): ハンガリー議会でハンガリー王位の女性継承が承認された。カール6世は自身が男子なく没した場合にハンガリー王位を選挙制に戻すことを認めたため、ハンガリー貴族もカール6世の後継者指定を受け入れた[2]。
- ナポリの国事詔書: ナポリ王カルロ7世(シチリア王カルロ5世)が、1759年10月6日に発布。自身のスペイン王即位(スペイン王カルロス3世)に伴い息子のフェルナンドへナポリ・シチリア王位を譲り、両国とスペインの連合禁止を定めた。
- 国事詔書 (1776年): スペイン王カルロス3世が、同年3月23日に発布。王族の婚姻に制限をかけた。
- 国事詔書 (1830年): スペイン王フェルナンド7世が、同年3月29日に発布。1789年にカルロス4世が発していた、長男子相続制を転換する勅令を、あらためて承認した。
脚注
編集- ^ 戸谷浩「プラグマティッシェ・ザンクツィオン」柴宜弘ほか監修『東欧を知る事典(新版)』(平凡社、2015年)、462ページ。ISBN 978-4-582-12648-8
- ^ R. W. SETON -WATSON: The southern Slav question and the Habsburg Monarchy page 22