教皇領

ローマ教皇あるいはローマ教皇庁の支配していた領土
教皇領
Status Ecclesiasticus (ラテン語)
東ローマ帝国
ロンバルディア王国
イタリア王国 (神聖ローマ帝国)
756年 - 1870年 イタリア王国
教皇領の国旗 教皇領の国章
国旗(1825年 - 1870年)国章(15世紀 - 19世紀)
国歌: Marcia trionfale
大凱旋行進曲
教皇領の位置
教皇領の位置(1789年)
公用語 ラテン語
イタリア語
宗教 カトリック
首都 ローマ
ローマ教皇
752年 - 757年 ステファヌス2世
1846年 - 1878年ピウス9世
変遷
ピピンの寄進 756年
ヴェネツィア条約
(神聖ローマ帝国から独立)
1177年
最初の解体1798年2月15日
バチカンの囚人1870年
ラテラノ条約
(→バチカン市国に)
1929年2月11日
通貨教皇領スクード英語版( - 1866年)
教皇領リラ英語版(1866年 - 1870年)
現在バチカンの旗 バチカン
イタリアの旗 イタリア
フランスの旗 フランス

教皇領(きょうこうりょう、ラテン語: Status Pontificius, イタリア語: Stato Pontificio)は、ローマ教皇あるいはローマ教皇庁の支配していた領土である。歴史的には国家としての体裁も持ったため、教皇国教皇国家とも呼ばれる。

1870年の教皇領の地図

歴史

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前史

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教皇領成立前のイタリア半島。黄色は東ローマ帝国領、ピンクは東ローマのラヴェンナ総督府領、オレンジはランゴバルド人の支配地域。

教皇権の成立

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教皇国家あるいは教皇領と呼ばれる、教皇の世俗支配の形成過程を概観する。ローマ司教の優位性は、イエスの言葉に求められた。イエスはペテロに向かって、「汝はペテロである。私はこの岩(ペテロ)の上に私の教会を建てよう」と言ったという。ペテロが最初のローマ司教であったことは、ローマ司教こそが教会の本体であるということを指していると受け取ることもできる。ペテロはイエスから「天国の鍵」を預けられたとされた。「『わたしも言っておく。あなたはペトロ。わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てる。陰府の力もこれに対抗できない。わたしはあなたに天国の鍵を授ける。あなたが地上でつなぐことは、天上でもつながれる。あなたが地上で解くことは、天上でも解かれる』」[1]

教権の上昇に最も貢献したのはレオ1世で、455年ヴァンダル族がローマを攻撃したときに、その王ガイセリックと交渉してローマの略奪を防いだ。この頃から「教皇(パパ)」という称号はローマ司教だけに特別に認められるものであるという観念が、ヨーロッパ世界に定着していった。

4世紀の教皇シリキウステサロニカ主教を教皇代理に任命して、ダキアマケドニアへの指導権を獲得し、ボニファティウス1世は改めてこれを皇帝ホノリウスに認めさせた。

グレゴリウス1世による司教座支配

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5世紀前半には、教皇の権威はイタリア・ガリア・ヒスパニア・アフリカ・イリュリクムに及んだ[2]。ところが東ローマ帝国に結びついたことで、東方の神学論争が西方に持ち込まれた。神学論争に介入する皇帝の姿勢は不満の種となり、北イタリアの大主教が教皇の影響から離脱する動きを示し、ガリアイベリア半島でも分離傾向が見られた。イタリア半島にランゴバルド族が侵入すると、グレゴリウス1世フランク王国と友好的な関係を結んだ。分離傾向を示す西方諸地域の司教たちに対して、グレゴリウス1世は教皇がそれらの上位にあることを繰り返し強調した。司教は当時すでに有力な世俗領主となりつつあり、上層階級には司教座を熱望する動きがあった[3][4]。その結果、明らかにふさわしくない候補者や若すぎる候補者が司教選挙に立つようになった[3]

グレゴリウス1世は、ナポリ司教を解任し、メリタ司教を降格し、タレントゥムカリャリサロナの高位聖職者を批判し、司教座に対する支配を徹底した[5]ブルンヒルドによるテウデリク2世テウデベルト2世の摂政期に起こった数々のガリア教会の醜聞に、グレゴリウスは諫言を書き送ったが、実を結ぶことはなかった[6]。グレゴリウス1世はビザンツ皇帝であるマウリキウス帝やフォカス帝に宛てた書簡では、自らへりくだって敬意を表しているが、メロヴィング朝の君主へ宛てた手紙では、彼らを厳しく叱責し高圧的な態度を取っている[7]。この当時のガリア教会は、完全にメロヴィング朝の「領邦教会」と化していたからである[8]

ビザンツ帝国に対しては一定程度の影響力を行使したが、従来教皇の指導権が及んでいたイリュリクムでは教義に関しても無力であった[6]。ローマ教皇のイリュリクムに対する管轄権は最終的にグレゴリウス3世時代の732年、ビザンツ皇帝レオーン3世によってコンスタンティノープル総主教の手に移された[9]

グレゴリウス1世は正統信仰の拡大に熱心で、ブリテン島への伝道を組織した。このアングロ・サクソン人への布教は順調な成果を上げ、カンタベリー大司教区が設けられ布教の拠点となった。これ以降、ブリテン島は北ヨーロッパにおける有力な布教拠点となった。たとえばカール大帝の時代には、アングロ・サクソン人の伝道者たちが大帝のガリアの宮廷で、キリスト教文化の興隆に多大な貢献をするまでになっていた。またアリウス派の牙城であった西ゴート王国のカトリックへの改宗に成功した。

成立

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天国への鍵を授けられるペテロ
イエスはペテロに天国の鍵を預けたとされ、彼が最初のローマ司教となったことで、彼の後継者であるローマ司教にその権威が受け継がれているという観念が広まった。ローマ教皇はこの鍵を自身のシンボルとして用いている。

476年480年)に西ローマ帝国が滅亡した後、都市やその領土等のローマ教皇への寄進によって教皇のものとなっていた領地というものは存在したが、後に教皇領となった地域は古代末期から中世初期には東ゴート王国、それを滅ぼした東ローマ帝国ラヴェンナ総督府、ついで6世紀にイタリアに侵入して東ローマ領を侵食したランゴバルド人ランゴバルド王国などが支配していた。こうした中、732年カロリング家カール・マルテルがランゴバルド王国と同盟し、トゥール・ポワティエ間の戦いウマイヤ朝の侵入を食い止めた。その後、カール・マルテルは土地を貸与する封建制で騎兵隊を創設した。

ピピンの寄進

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フランク王国メロヴィング朝の君主に替わってカロリング家が実権を握るようになると、教皇とカロリング家は接近し非常に親密な関係を結ぶようになった。

ランゴバルド王国を牽制したかった教皇ザカリアスは、751年に名目だけの王と成り下がっていたフランク王国メロヴィング朝)のキルデリク3世を廃し、カロリング家のピピン3世の王位簒奪を支持してカロリング朝が創設された。本格的に教皇領が世俗の国家のように成立するのは、翌752年にこの国王ピピン3世がランゴバルド王国から奪ったイタリアの領土を寄進してからである。この時期、ラヴェンナ大司教は東ローマ皇帝の利益を代弁し、ローマ教皇と北イタリアの教会の管轄権を争っていた。ピピン3世はランゴバルド族を討伐すると、ラヴェンナを征服してローマ教皇に献じ(ピピンの寄進)、教皇の世俗的領土として教皇領が形成された。カトリック教会の中心であるローマ教皇庁が領土をもったことは、精神的な存在であるはずの教会の世俗化につながった。

続く教皇ステファヌス2世は、ガリアのピピン3世の宮廷に自ら赴き、フランク王国がイタリアの政治状況へ介入する約束と引き替えに、ピピン3世の息子カールカールマンに塗油の秘蹟を施した。

カール大帝の寄進とフランク・ローマ皇帝

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773年、教皇ハドリアヌス1世はランゴバルド王国にローマを脅かされていたが、ピピン3世の跡を継いだカール1世(カール大帝)に援軍を要請し、774年にランゴバルド王国は滅亡した(Langobardenfeldzug)。カール大帝も、教皇にローマを中心とした中部イタリアを献じた。ハドリアヌス1世は『偽イシドールス法令集』中の『コンスタンティヌス帝の寄進状』を持ち出して、イタリア全土が教皇の支配に服するようになることをカール大帝に要望した。

 
カール大帝の玉座

800年、教皇レオ3世はカール1世をローマに招き、カールにローマ皇帝の冠を授けて「西ローマ皇帝」の地位を与えた。この場合の「西ローマ」は、イタリア半島と西ヨーロッパ内陸部、ガリアとゲルマニア(理念上はヒスパニアとブリタニアも含む)を指す領域的な用語で、かつての東西分裂時代の西ローマ帝国とは基本的に異なり、その支配者に注目すれば「カロリング帝国」もしくは「フランク帝国」となる。こうして西ローマ帝国が事実上復活し、フランク国王である西ローマ皇帝は西地中海においてキリスト教世俗国家を代表することとなった。欧州の大実力者フランク王国とローマ教皇が提携することによって、東方教会と東ローマ帝国やイスラム帝国に対抗できる体制が整った。

教皇は教皇国家といえるような世俗的な領土を持っていたとはいえ、基本的には教皇領も帝国の一部で皇帝から独立していたわけではない。しかし、教皇は東ローマ帝国のコンスタンティノープル総主教とは異なり、皇帝の官僚であることはなく、教皇選挙によって皇帝の承認を必要とせずに選ばれたのであって、教皇選任に対する皇帝の統制は制度としては介在することはなかった。またカール大帝が帝冠を教皇から与えられたことは、のちに世俗君主が皇帝を名乗るのに教皇の承認を必要とするという観念につながり、教皇に優位性を与える根拠となった。

しかし、カール大帝の没後にフランク王国が三分裂し、843年ヴェルダン条約西フランク王国フランス王国)と東フランク王国が欧州の大国となった。

863年、ローマ教皇ニコラウス1世とコンスタンディヌーポリ総主教フォティオス1世が、フィリオクェ問題を巡って「フォティオスの分離英語版」(863年-867年)と呼ばれる東西教会の対立状態に陥った。東ローマ帝国の皇帝バシレイオス1世は、フォティオス1世を罷免して対立を解消した。

神聖ローマ帝国の誕生

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教皇ヨハネス12世は、教皇領拡大政策で周辺国と争いが絶えなかったが、東フランク王国の国王オットー1世に救援を要請し窮地を脱した。962年、ヨハネス12世はオットー1世にローマ皇帝の帝冠を与え(神聖ローマ帝国)、この見返りとしてオットー大帝は教皇領を保障した。

1054年東西教会が分裂した。

教皇派と皇帝派

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その後、神聖ローマ皇帝シチリア王がしばしばイタリア支配を目指して教皇領に侵攻することがあった。1254年、教皇の意を受けたフランス王ルイ9世の弟シャルル・ダンジュー(カルロ1世)が神聖ローマ帝国ホーエンシュタウフェン朝を滅亡させると、それ以降は教皇領は安泰となった。1274年にフランス王フィリップ3世は、アヴィニョン周辺はアルビジョア十字軍時にトゥールーズ伯レーモン7世がローマ教会に寄進したはずだと主張する教皇の主張に屈し、アヴィニョン周辺(コンタ・ヴネサン英語版、ヴネサン伯爵領、アヴィニョン市を除く)を教皇領に割譲した。1348年、プロヴァンス伯兼ナポリ女王ジョアンナが教皇クレメンス6世にアヴィニョン市を売却した。以後、フランス革命で没収されるまでアヴィニョンとコンタ・ヴネサンはフランス国内の教皇領の飛び地となった。

アヴィニョン捕囚と教会大分裂

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しかし、教皇のアヴィニョン捕囚1309年 - 1377年)が起こると、教皇による教皇領への支配が弱まり、各地を支配する代官が僭主シニョリーア)として独立君主のように振舞うようになった。

イタリア戦争

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教皇アレクサンデル6世(1492年 - 1503年)は、庶子チェーザレ・ボルジアを用いて教皇領の再統一を進めた。ユリウス2世(1503年 - 1513年)の時代以降、フランススペインオーストリアの圧力を受けながらも、教皇領は国家としての機能を持つようになった。17世紀に教皇領は最大となった。

三十年戦争

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三十年戦争1618年 - 1648年)で神聖ローマ帝国が敗れ、ヴェストファーレン体制1648年 - 1789年[10])下でヨーロッパの小邦にも主権が認められるようになった為、教皇権力は衰微した。

パリ外国宣教会創設とアジア布教

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教皇アレクサンデル7世の支援のもと、イエズス会アレクサンドル・ドゥ・ロードをアジア布教に出発させ、これが事実上のパリ外国宣教会創設とされている。

ピニョー・ド・ベーヌは、グエン・アイン(阮福映)へフランスの支援ベトナム語版英語版を与え、西山朝と戦わせた。コーチシナ戦争英語版トンキン戦争英語版清仏戦争を経て、1887年フランス領インドシナが成立した。

フランス革命およびナポレオン時代

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ナポレオン戦争直前までの教皇領(クリーム色)。現在のラツィオウンブリアマルケのほぼ全域とエミリア=ロマーニャの東部を占める。
 
1808年以前の教皇領国旗。

フランス革命は、カトリック教会全般にとってと同様、教皇座の現世の領域にとって悲惨な状況をもたらした。1791年に、コンタ・ヴネサンおよびアヴィニョンがフランスによって併合された。その後1796年、ナポレオン・ボナパルトを司令官とするフランス軍のイタリア侵略により、教皇領公国は併呑されチザルピーナ共和国の一部となった。2年後の1798年、教皇領全体がローマ共和国の樹立を宣言したフランス軍によって侵略された。教皇ピウス6世は1799年にフランスで幽閉中に没した。教皇領は1800年6月に復活し、教皇ピウス7世が戻った。しかし1808年に再度フランスが侵略し、この時には教皇領の残りがフランス領に併合され、ティブル県およびトラジメーヌ県とされた。1814年にナポレオン体制が倒れたことにより、教皇領はウィーン会議で復活した。

国民国家イタリアの勃興と教皇領の終焉

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近代国家誕生の激動(1820年の革命イタリア語版スペイン語版フランス語版英語版1830年の革命イタリア語版1848年革命イタリア統一運動)により教皇領は縮小させられていった。

1859年オーストリア帝国からの第2次イタリア独立戦争で、サルデーニャ王国ナポレオン3世と同盟し、ソルフェリーノの戦いでサルデーニャ・フランス連合軍はオーストリア軍に勝利した[11]。しかし、ロマーニャ・トスカーナなどイタリア各地で教皇支配からサルデーニャ王国への合併運動が展開すると、フランス国内のカトリック派も戦争に冷淡であり、またプロイセンも干渉の気配を見せたことなどから、ナポレオン3世はサルデーニャ王国に黙ってヴィッラフランカでオーストリアと単独で講和した。オーストリアがヴェネト州を保持し、トスカーナなど亡命君主の復位も約束された[11]。フランスの単独講和にサルデーニャ王国は戦争継続を希望したが、やむなく容認し仮条約に署名した[11]1860年、ナポレオン3世はサヴォイニースのフランスへの割譲を条件に、サルデーニャ王国による中部イタリア併合を承認した[11]。1860年4月、共和主義者ガリバルディ率いる義勇軍赤シャツ隊両シチリア王国を滅ぼしてローマに進軍したが、サルデーニャ王国は赤シャツ隊によるローマ制圧を恐れ、先んじて教皇領とナポリ王国軍を撃破した[11]。やむなくガリバルディは征服した南イタリアをサルデーニャ王ヴィットーリオ・エマヌエーレ2世に献上し、両者は並んでローマに入城した[11]

また、同年10月までに教皇領の東側にあるロマーニャエミリア=ロマーニャ州の東部)とマルケ州、そして中央部にあるウンブリア州がサルデーニャ王国に占領され、次いで住民投票が行われた結果、これらの地区はサルデーニャ王国への合併が決定された[12]

こうして1861年には、教皇領であるローマを含むラツィオ州とオーストリア領のヴェネト州をのぞくイタリア王国ヴィットーリオ・エマヌエーレ2世イタリア王の下に成立した[11]

1866年プロイセン・オーストリア戦争で、イタリアはプロイセンと同盟を結んで参戦するが、イタリア軍は指揮官の党派的反目で機動的作戦が妨げられ、敗戦を重ねた[11]。プロイセンはイタリアに無通告でオーストリアと休戦し、イタリアは国民的恥辱のうちにあったが、ヴェネト州を回収できた[11]

1867年フランス軍がローマを撤退する[* 1]と、反教皇派のガリバルディがローマ占領を試みるが、再派遣されたフランス軍によって撃破され、その後もフランス軍はローマに駐留した[11]

1870年9月、プロイセン=フランス戦争セダンの戦いでフランスが降伏すると、イタリア王国は共和主義者マッツィーニ派によるローマ奪回に先んじて、イタリア軍は9月19日に簡単な砲撃戦の後、ローマを占領した[13]。教皇は教皇の世俗権力の廃棄に関与するすべてのものを破門にすると宣告したが、10月2日の住民投票では、ローマのイタリア王国への併合が圧倒的に賛成され、可決した[13]。翌1871年5月、イタリア王国は教皇保障法 (Legge delle Guarentigie) を制定し、教皇は反対したが、政府は一方的に成立させ、イタリア統一を完成させた[13]。これにより、教皇領は完全に消滅した。1871年には、イタリアの首都がローマに移された。

影響

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以降、教皇ピウス9世は自らを「バチカンの囚人」(1870年 - 1929年)と呼び、数代(レオ13世ピウス10世ベネディクトゥス15世)に渡ってイタリア政府との交渉を拒否した。ピウス11世の時代にイタリア政府とバチカンの間での和解が模索され、1929年ラテラノ条約が締結され、世界最小の独立国「バチカン市国」が成立した。

脚注

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注釈

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  1. ^ ローマに駐留したフランス軍については1864年に2年以内に撤退するという「9月協定」がイタリアとフランス間で締結されていた[11]

出典

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  1. ^ 新共同訳、「マタイによる福音書」16.18-19。
  2. ^ 尚樹啓太郎 1999, pp. 106–107.
  3. ^ a b William 1902, p. 52.
  4. ^ H・I・マルー 1996, p. 438.
  5. ^ William 1902, pp. 52–53.
  6. ^ a b William 1902, p. 53.
  7. ^ H・I・マルー 1996, p. 434.
  8. ^ M・D・ノウルズ 1996.
  9. ^ 尚樹啓太郎 1999, p. 5.
  10. ^ 1789年8月26日人間と市民の権利の宣言まで、もしくは1803年ナポレオン戦争まで。
  11. ^ a b c d e f g h i j k 森田 イタリア史,p.153-159.
  12. ^ 世界の歴史まっぷ 教皇領
  13. ^ a b c 森田 イタリア史,p.164-166.

参考文献

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  • 尚樹啓太郎 『ビザンツ帝国史』 東海大学出版会、1999年。
  • H・I・マルー 『教父時代』2、上智大学中世思想研究所訳、平凡社〈平凡社ライブラリー, 168 . キリスト教史〉、1996年。
  • M・D・ノウルズ 『中世キリスト教の成立』3、上智大学中世思想研究所訳、平凡社〈平凡社ライブラリー, 174 . キリスト教史〉、1996年。
  • William, Barry (1902). The Papal Monarchy from St. Gregory the Great to Boniface VIII. T. Fisher Unwin.
  • 森田鉄郎 著「第1編 イタリア史」、井上幸治 編『南欧史』山川出版社〈世界各国史5〉、1957年3月。 

関連項目

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