浅野長晟

江戸時代前期の大名。備中足守藩主、紀伊和歌山藩2代藩主、安芸広島藩初代藩主。浅野家16代。浅野長政の次男。従五位下右兵衛佐、但馬守、従四位下侍従。

浅野 長晟(あさの ながあきら)は、江戸時代前期の大名備中国足守藩主、紀伊国和歌山藩の第2代藩主安芸国広島藩初代藩主。浅野家16代当主。

 
浅野 長晟
浅野長晟像(広島市立中央図書館蔵)
時代 安土桃山時代 - 江戸時代前期
生誕 天正14年1月28日1586年3月18日
死没 寛永9年9月3日1632年10月16日[1]
改名 岩松(幼名)、長晟
戒名 自得院殿洞雲宗仙大居士
墓所

広島県広島市の神田山墓地

高野山奥之院(悉地院・無量光院墓所)
官位 従五位下右兵衛佐但馬守従四位下侍従
幕府 江戸幕府
主君 豊臣秀吉秀頼徳川家康秀忠家光
備中足守藩主→紀伊和歌山藩主、安芸広島藩
氏族 浅野氏
父母 浅野長政長生院
兄弟 幸長長晟杉原長房正室、養梅院殿、智相院、長重
正室正清院[2]
長治光晟
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生涯

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近江滋賀郡坂本(現滋賀県大津市)に浅野長政の次男として生まれる。

文禄3年(1594年)、豊臣秀吉に仕えて3000石を与えられる。

慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦い以後は徳川家康に従い、徳川秀忠の小姓を務め、慶長15年(1610年)に備中足守に2万4000石を与えられる。

慶長18年(1613年)、長兄の幸長が嗣子なく病死したため、家督を相続して紀伊和歌山藩(紀州藩)主となった。

慶長19年(1614年)の大坂冬の陣では序盤の木津川口の戦いに参戦したほか、翌20年(1615年)の夏の陣では、樫井の戦い塙直之らを討つという功績を挙げた。しかし、紀伊国内では北山一揆紀州一揆と土着勢力の相次ぐ蜂起に遭い、戦後すぐに領内に戻り一揆の鎮圧にあたった。同年、徳川家康の仲介で三女の正清院(蒲生秀行未亡人)と婚姻した。

元和5年(1619年)、福島正則改易されると、その後を受けて安芸広島42万石に加増移封された。この年、長晟は重臣浅野氏重を殺害したために騒動となったが、蒲生忠郷[3]らが長晟を擁護したことで事なきを得た。

寛永9年(1632年)9月3日、広島で死去した。享年47(満46歳没)。家督は次男の光晟が継いだ。

墓所は広島県広島市の神田山墓地。

系譜

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脚注

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  1. ^ 浅野長晟』 - コトバンク
  2. ^ 上田正昭、津田秀夫、永原慶二、藤井松一、藤原彰、『コンサイス日本人名辞典 第5版』、株式会社三省堂、2009年 25頁。
  3. ^ 会津藩主、生母が正清院であるため、長晟は忠郷の継父にあたる。
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