田横
田 横(でん おう、? - 紀元前202年)は楚漢戦争時代の英傑のひとり。戦国時代の田斉の王家の末裔。秦末の斉郡狄県の人。秦末漢初に斉の将軍・宰相となった。強権に屈しない精神を持つ人物として、後世に名を残す。
生涯
編集田氏三兄弟
編集田横は兄の田栄、従兄の田儋とともに郷里の狄県で挙兵し、秦二世元年(紀元前209年)、田儋は自立して斉王となった。秦将章邯が魏地の臨済を攻囲し、魏王魏咎は斉に救援を要請する。斉はこれに応じ派兵するが敗れ、田儋は戦死し、田栄は東阿に退いた。彼ら不在の斉では政変が起き、田角・田間らがもとの斉王建の弟・田假(田仮)を王に立てる。田栄は内乱に激怒した。田栄は楚軍の項梁の支援を得て章邯を撃破、斉にもどり田假を攻撃する。秦二世2年(紀元前208年)8月、田假は楚に、田角・田間は趙に亡命した。田栄は田儋の子である従子の田巿を王に立て、自身は宰相となり、田横は将となって内乱を平定した。
秦二世2年9月、項梁は章邯を攻撃しようとして斉に支援を求めたが、田栄は「楚が田假を殺せば兵を出す」という条件を出した。楚はこれに応じずに戦い、項梁は章邯に敗れて戦死した(定陶の戦い)。そのため、項梁の甥・項羽は田栄を恨んだ。その一方で楚を支持する斉将もあり、同族の田都や斉王建の孫・田安は田栄に離反して項羽に従軍した。
この後、項羽が章邯を降し、諸侯を率いて関中に進軍し秦を滅ぼす。漢王元年(紀元前206年)2月、項羽主導の論功行賞により諸王の配置が決定される。斉王田巿を膠東王に遷し、田都を斉王に立て、田安を済北王に立てた。世にいう「三斉」である。項梁戦死の件で恨まれていた田栄に封王の通知は無く、同じく王になれなかった陳余とともに項羽を恨んだ。そこで田栄は陳余に兵を与えて趙地で反乱を起こさせ、同時に田栄も斉地で開戦した。田栄は斉王田都を楚に追いやり、済北王田安を殺害し、さらに自分に従わなかった膠東王田巿をも殺害して三斉を制し、自ら斉王となった。
相国・斉王
編集項羽はこれに怒って自ら征斉の軍を率い、城陽(莒県)に田栄を破った。田栄は趙の陳余のもとに逃れようとするが、平原県で住民に殺害された。項羽は田假を斉王に立てる。しかし項羽は斉地の城郭を焼くのみならず、通過する所をことごとく攻め滅ぼしたため、斉の人々は項羽に反抗した。田横がこれら兵衆を収め莒県を拠点にし、その数は数万人に膨れ上がった。ちょうどその頃、漢王劉邦が項羽の本拠地・彭城を落としたので項羽は斉との戦いをあきらめ反転した(彭城の戦い)。こうして田横は斉の諸城を取りもどし、田假を追放した。漢王2年(紀元前205年)4月、田横は田栄の子である甥の田広を王に立て、自分は相国となり政治は大小全て自分で決めた。
その後、漢の大将韓信が趙を落とし斉を攻めようとしていたので、田横は歴城に将軍の華無傷と田解を派遣しこれを阻もうとした。その最中、漢王3年(紀元前204年)、劉邦は酈食其を使者として斉との同盟を持ちかけてきた。田横はそれを受け入れ、漢軍に対する守備を止めた。しかし自己の功績が無くなることを恐れた韓信は同盟交渉を無視して斉へと侵攻し、歴城に大勝し斉の本拠地・臨淄へ東進する。斉王広と田横はこの報復として酈食其を煮殺すが、迎撃をあきらめ田横は西の博陽へ、斉王広は東の高密へ逃げた。
漢王4年(紀元前203年)11月、項羽は斉の救援に応じ、楚将の龍且と周蘭に大軍を与え斉に急派した。しかしこれも韓信に破られ、龍且は灌嬰に討たれ、周蘭は曹参によって捕獲された。斉王広はこれを聞き、高密から脱出し魏の相国・彭越を頼ろうとするが、韓信の追撃により捕らえられ処刑された。田横はその報をうけ自ら斉王を称する。灌嬰との交戦のすえに、田横は彭越のもとへと落ち延びる。また、守相(大臣)の田光・許章、将軍の田既・田吸ら漢軍と抗戦した斉将たちはことごとく敗れた。斉は占領され、韓信は劉邦により斉王に封じられた。
最期
編集高祖5年(紀元前202年)2月、項羽を滅ぼした漢王劉邦は諸侯によって皇帝に推挙される。梁王彭越は田氏と親交があったが、今となっては田横の存在は重荷となる。田横はこれを察し、部下(食客)五百余人とともに即墨の東の海上の島へと逃れた。
劉邦は、田横らがいまだ斉において影響力を持っていることから乱の元になるのを憂慮した。使者を遣わしその抗漢の罪を赦すことを約束し、都への参内を促した。田横は拒否する。「私はかつて陛下の使者・酈生を煮殺しました。その弟・酈商は漢の将として有能とのこと。変事を恐れるあまり、あえて詔を奉じません。平民として海中の島で生きて行きたい」 劉邦は衛尉酈商にその意向を伝え、異心を起こさぬよう釘を差した。そうして再度、田横のもとに使者を送る。「応じなければ、兵を挙げて誅を加えるであろう」 いよいよ断りきれなくなった田横は、食客二人(二客)とともに劉邦のもとへ向かった。
田横は劉邦のいる洛陽まであと30里ほどの、偃師県にて足を止める。田横は二客に言った。「私と漢王はかつてはともに王であった。今では天子と虜囚、その恥辱たるや大いに甚だしい。かつ、煮殺した相手の弟と肩を並べて同じ君主に仕えるのだ。私は耐えられないだろう。そもそも漢王が私を招くのは、私の顔を一度見ておこうということに過ぎない。いま私の首を斬っても、ここからなら洛陽まで容貌がわからなくなるほど腐敗することはない。私の顔を見せるには十分だろう」 田横は自刎して果てた。
二客は疾走して田横の首を劉邦に奉じた。劉邦は驚く。「ああ、布衣(無官)の身から兄弟三人が王となるというのは、賢者に違いない」 田横のために涙を流し、二客を都尉に任命して田横を王の礼で葬った。その後、二客もその墓のそばで自殺した。劉邦はそれを聞いてまた驚き、彼の食客もみな賢者であると思い、島に残る五百余人を召し出した。しかし、彼らも田横が死んだことを知ると失望し、全員が自殺した。
評価
編集- 赤壁の戦いの前夜、劉備が曹操に敗れ孫権に援軍を求めるために諸葛亮を派遣したさい、諸葛亮は徹底抗戦の意志を田横の最期を例に挙げて答えている。孫権が言う。「劉豫州(劉備)はどうしてあくまでも曹操に仕えないのか」 諸葛亮は答えた。「田横は斉の壮士にすぎなかったのに、なおも義を守って屈辱を受けませんでした。まして劉豫州は漢王室の後裔であります。(中略)どうして曹操の下につくことなどできましょうか」 (陳寿『三国志』巻35 蜀書 諸葛亮伝)
- 魏甘露3年(258年)、諸葛誕が当時実質的に魏を支配していた司馬氏に対し反乱を起こして敗死した時、その手勢数百は降伏を拒絶し、「諸葛公のため」と従容として死んでいった。このことも田横とその食客の故事に引き比べられた。 (『三国志』巻28 魏書 王毌丘諸葛鄧鍾伝 諸葛誕伝)