紀元前201年
年
紀元前201年(きげんぜん201ねん)は、ローマ暦の年である。ローマ建国紀元553年、グナエウス・コルネリウス・レントゥルスとプブリウス・アエリウス・パエトゥスの年[1]。
世紀 | 前4世紀 - 前3世紀 - 前2世紀 |
---|---|
十年紀 |
前220年代 前210年代 前200年代 前190年代 前180年代 |
年 |
前204年 前203年 前202年 紀元前201年 前200年 前199年 前198年 |
他の紀年法
編集できごと
編集中国
編集共和政ローマ
編集- スキピオ・アフリカヌスがハンニバル、カルタゴ、シュファクスに対する勝利を祝って凱旋式を挙行した[2]。
- ペルガモンのアッタロス1世とロドス島の使者がやってきて、ピリッポス5世の侵攻を訴えた[2]。
- 護民官マニウス・アキリウス・グラブリオとクィントゥス・ミヌキウス・テルムスによって、カルタゴとの和平がプレプス民会で決議された(Lex Acilia Minucia de pace cum Carthaginensibus facienda et de exercitu ex Africa deportando、結ばれるべきカルタゴとの和平とアフリカから撤退されるべき兵に関するアキリウス・ミヌキウス法)[3]。
- プラエトル・ウルバヌス(首都法務官)によって、スキピオ・アフリカヌスの下で戦った退役兵に土地を分配する十人委員会が選出された[4]。
誕生
編集→「Category:紀元前201年生」も参照
死去
編集→「Category:紀元前201年没」も参照
脚注
編集注釈
出典
参考文献
編集- Giovanni Rotondi (1912). Leges publicae populi romani. Società Editrice Libraria
- T. R. S. Broughton (1951). The Magistrates of the Roman Republic Vol.1. American Philological Association