葉梨信行
日本の政治家 (1928-2021)
葉梨 信行(はなし のぶゆき、1928年(昭和3年)12月16日 - 2021年(令和3年)8月14日)は、日本の政治家。位階は正三位。自由民主党の元衆議院議員。
葉梨 信行 はなし のぶゆき | |
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生年月日 | 1928年12月16日 |
出生地 | 日本 東京都 |
没年月日 | 2021年8月14日(92歳没) |
出身校 | 北海道大学大学院理学系研究科修士課程修了 |
所属政党 | 自由民主党 |
称号 |
正三位 勲一等旭日大綬章 |
親族 |
父・葉梨新五郎(元衆議院議員) 娘婿・葉梨康弘(衆議院議員) |
内閣 | 第3次中曽根内閣 |
在任期間 | 1986年7月22日 - 1987年11月6日 |
選挙区 |
(旧茨城1区→) (比例北関東ブロック→) 茨城3区 |
当選回数 | 12回 |
在任期間 | 1967年1月30日 - 2003年10月10日 |
来歴・人物
編集東京府立第六中学校から旧制水戸高等学校を卒業。数学者を志して1954年北海道大学理学部数学科卒業、1956年北海道大学大学院理学系研究科修士課程修了[1]。
政治家になる意思はなかったが、周囲の説得に翻意し、立候補を決意。政治修行のため、福田一の秘書をしていた時期もある[要出典]。
中選挙区時代の衆議院茨城1区の葉梨新五郎の地盤を継承したものの、3回連続で落選。1967年、4回目の挑戦でようやく初当選。以降連続12回当選。大臣に就任するまでの間、取手市にある自宅から国会議事堂まで列車通勤をしていた[要出典]。
第2次田中角栄内閣の労働政務次官を務め、なかなか入閣できずにいたが、第3次中曽根内閣で自治大臣兼国家公安委員会委員長として初入閣。以降は自民党憲法調査会会長、弾劾裁判所裁判長などを歴任。
中選挙区制時代、葉梨と中山利生はそれぞれの親の代(葉梨新五郎・中山栄一)から選挙で激突した[要出典]。小選挙区制導入以後は、山口武平の提案によりコスタリカ方式を採用。それに応える形で「自民党として議席を取れるかどうかは互いの努力にかかっており、党勢力拡大のためお互い協力していきたい」と述べ、実際選挙においては中山代議士の応援に尽力し、対立は終息化した[要出典]。
2003年、地盤を娘婿の康弘に譲り、政界から引退した。
2021年8月14日7時17分、老衰のため死去[3]。92歳没。日本国政府は死没日付で正三位に叙することを決めた[4][5]。
関連項目
編集脚注
編集出典
編集- ^ “卒業生の受賞・受章 - 受賞・受章 INDEX - 数学教室紹介”. 北海道大学大学院理学研究院数学部門/北海道大学大学院理学院数学専攻/北海道大学理学部数学科. 2021年9月14日閲覧。
- ^ 「2000年秋の叙勲 勲三等以上と在外邦人、外国人、在日外国人の受章者一覧」『読売新聞』2000年11月3日朝刊
- ^ “葉梨信行氏死去 元自治相、元自民党衆院議員”. 時事ドットコム (時事通信社). (2021年8月17日) 2021年8月17日閲覧。
- ^ 『官報』第578号6頁 令和3年9月17日号
- ^ “故葉梨信行氏に正三位”. 時事ドットコム. 時事通信社 (2021年9月7日). 2021年9月14日閲覧。
議会 | ||
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先代 中馬弘毅 |
衆議院公職選挙法改正に関する調査特別委員長 1997年 - 1998年 |
次代 桜井新 |
先代 青木正久 |
衆議院文教委員長 1982年 - 1983年 |
次代 愛野興一郎 |
先代 森下元晴 |
衆議院社会労働委員長 1979年 - 1980年 |
次代 山下徳夫 |
公職 | ||
先代 小沢一郎 |
自治大臣 第35代:1986年 - 1987年 |
次代 梶山静六 |
先代 小沢一郎 |
国家公安委員会委員長 第45代:1986年 - 1987年 |
次代 梶山静六 |