金平糖
金平糖(こんぺいとう、コンペイトー)とは、砂糖と下味のついた水分を原料にした、表面に凹凸状の突起(角状)をもつ小球形の和菓子。
金米糖、金餅糖、糖花とも表記される。語源はポルトガル語のコンフェイト[1](confeito [kõˈfɐjtu]、糖菓の意)。金平糖はカステラ・有平糖などとともに南蛮菓子としてポルトガルから九州や西日本へ伝えられたとされる。初めて日本に金平糖が伝わった時期については諸説あるが、戦国時代の1546年(天文15年)とも言われている[2]。
製法
編集- 氷砂糖に水を加えて煮詰め、蜜をつくる。
- 回転鍋(その形から銅鑼と呼ばれる)を熱しながら、金平糖の核となるケシ粒(現在はザラメ糖が用いられることが多い)を入れて攪拌する[3]。
- 攪拌中に飽和濃度に近い粘度の高いショ糖液を加え、核がショ糖液で濡れた状態にする[3]。
- 回転させながら目的の大きさと凹凸状の突起ができあがるまで、1週間から2週間以上の時間をかけて粒をゆっくり成長させる。
金平糖の突起はおおむね十数個から30個程度である[3]。この特徴的な突起がなぜ、またいくつ形成されるのかについてはまだ定説がない[4]。蔵本・シバシンスキー式 (Kuramoto‐Sivashinsky Equation) によって定式化が試みられている[4]。東京帝国大理科大学教授の寺田寅彦は金平糖の突起に興味を持ち[5]、弟子の福島浩に金平糖の実験をさせた[3]。この実験が金平糖に関する初めての実験とされる[3]。
本来砂糖は湿気を嫌うことから、金平糖自体の水分含有量は極めて低くなるように作られているが、ボンボンのように焼酎を含む物も開発・発売されている。厳密には金平糖とは違う菓子であるが、金平糖が皇室の引出物にも利用されていることにあやかって「おめでたいお菓子」と銘打っている製造元もあり、土産物として販売されている。他にもウィスキーや日本酒・梅酒などで風味を付けたものもあり、その他にも色々な風味で変化を持たせた物も存在している。
歴史
編集原型となった菓子「コンフェイト」(confeito)はポルトガルのもので、「NOVO DICIONARIO DA LINGUA PORTUGUESA」によると植物の種子を芯にして砂糖の層で覆った菓子である(語源はラテン語で「用意された」という意味の「confectu」)[6]。
日本には戦国時代にポルトガル人が西日本へ来航し、南蛮の諸文物がもたらされた。永禄12年(1569年)にキリスト教・宣教師のルイス・フロイスが京都の二条城において織田信長に謁見した際に、献上物としてろうそく数本とフラスコ(ガラス瓶)に入った金平糖が差し出された[7][8]。
江戸時代初期には慶長14年(1609年)に佐賀藩の『坊所鍋島文書』に「金平糖一斤(600グラム)」が記されており、慶長18年(1613年)に平戸の松浦鎮信の病気見舞いに贈られたという[9]。さらに、寛永14年(1637年)の長崎・平戸のオランダ商館長日記に拠れば、ポルトガル船により「各種金平糖3000斤(1800キロ)」が運ばれており、京都などに流通して献上品として用いられていた[9]。
寛永16年(1639年)にポルトガル船の来航が禁止されると、金平糖の輸入が途絶え、一時は金平糖が出回らなくなったが、その後長崎の菓子職人が、2年にわたる研究の結果、金平糖を作り出した[10][11]。江戸中期には、元禄元年(1688年)に刊行された井原西鶴『日本永代蔵』の中で長崎において金平糖作成を試みる話を記しており、中国人もその製法を知っていたという[9]。なお、西日本では佐賀藩で元禄3年(1690年)から三度に渡る贈答の事例がある[9]。
明治時代までは裕福な家庭のお菓子であった[8]。菓子職人によって製造される金平糖を機械で大量生産する試みもみられ、多数の突起を手工ではなく機械で製造する方法などいくつかの発明が生み出された[12]。これには日清戦争や日露戦争を通して兵隊用の非常食・携行食として保存のきく菓子が求められた背景もある[12]。しかし、大正時代にかけてアイスクリームやチョコレートが広まると、徐々に姿を消していった[8]。
利用
編集乾パンと金平糖
編集非常食の乾パンの缶には、氷砂糖がしばしば同梱されている。この由来は、帝国陸軍が軍用食を開発する際、糖分を補う目的で金米糖を乾パン(乾麺麭)と共に入れたことによる。
なお、その金平糖入り乾パンをシベリアで試用したところ、白い金米糖は氷を連想するということで不評を買い、黄、青、ピンク、紫、緑の5色の金米糖を採用して好評を得たことから、さまざまな色の金平糖が作られるようになった[13]。この発想を岡本かの子は絶賛した[13]。
乾パンに金平糖を同梱する習慣は、防衛省の小型乾パンにおいても踏襲されており、仕様書では「小型乾パン一袋150gにつき、白8個、赤3個、黄2個、緑2個を標準として、15g以上を袋に納める(この金平糖の袋を、乾パンと共に同梱する)」と色ごとの標準までも定めている。
砂糖の代用品
編集主成分がグラニュー糖であるため、喫茶店などではコーヒーや紅茶用の砂糖の代用としても使用されることがある。
引出物
編集金平糖は、皇室の引出物としてボンボニエール(ボンボン菓子入れ)が供される際に用いられる[14]。1894年頃にはすでにボンボニエールに金平糖を入れていたとされる[14]。一般人の間でも、引出物として結婚や出産などの慶祝用途や、神社や寺で祈祷した際の授与品の一部として利用される。
数え歌
編集昔から子供には人気のある菓子で、いわゆる「数え歌」の1番目の品物として登場する。金平糖は「甘い」と連想され、それ以降は砂糖・雪・ウサギ・カエル・葉っぱ……など味・色・行動・形状などの要素をもとにした連想が続く[15]。
脚注
編集出典
編集- ^ “金平糖(こんぺいとう)とは”. コトバンク. 2018年9月10日閲覧。
- ^ “〔金平糖について〕由来 歴史 職人”. 緑寿庵清水. 2018年9月10日閲覧。
- ^ a b c d e 早川美徳『金平糖の形成ダイナミクス(<小特集>みぢかなモノの「ウゴキ」・「カタチ」)』一般社団法人 日本物理学会、2009年10月5日。doi:10.11316/butsuri.64.10_753 。2021年11月25日閲覧。
- ^ a b 鈴木宏昌「金平糖成長過程の連続モデル」『滋賀大学教育学部紀要』第70巻、滋賀大学教育学部、2021年2月、165-171頁。
- ^ 寺田寅彦『金平糖』(1927)を参照。『備忘録』(青空文庫)中の一文。物理学者であった寅彦は、ひび割れや火花放電の形と共に、金平糖の角を物理学上における偶然異同の現象として捉え、統計力学的な考察の必要性を主張している。
- ^ 馬場良二「ポルトガル語からの外来語」『国文研究』第53巻、熊本県立大学日本語日本文学会、2008年5月、120(1)-111(10)、NAID 120006773363。
- ^ 江後迪子 2011, p. 126, 181.
- ^ a b c 中田友一,鈴木しのぶ「古典・文学にみる金平糖」『中京大学教養論叢』第32巻第1号、中京大学、1991年7月、221-270頁。
- ^ a b c d 江後迪子 2011, p. 182.
- ^ “金平糖は日本のお菓子?語源や歴史について解説!”. クラシル. 2024年7月18日閲覧。
- ^ “金平糖と砂糖|農畜産業振興機構”. 農畜産業振興機構. 2024年7月18日閲覧。
- ^ a b “発明に見る日本の生活文化史 食品シリーズ 第3巻 菓子”. ネオテクノロジー. 2022年12月24日閲覧。
- ^ a b “備蓄食糧の歴史とカンパンの由来|三立製菓カンパン”. 三立製菓カンパン. 2021年11月25日閲覧。
- ^ a b “金平糖とボンボニエール|農畜産業振興機構”. 農畜産業振興機構. 2021年11月25日閲覧。
- ^ “いろはに金平糖 日本の童謡・わらべうたの謎”. 世界の民謡・童謡. 2024年7月18日閲覧。
参考文献
編集- 江後迪子『長崎奉行のお献立 : 南蛮食べもの百科』吉川弘文館、2011年。ISBN 978-4-642-08048-4。
- 寺田寅彦 著、池内了 編『椿の花に宇宙を見る : 寺田寅彦ベストオブエッセイ』夏目書房、1998年。ISBN 4-931391-37-0。
- 中田友一『おーい、コンペートー』あかね書房〈あかねノンフィクション〉、1990年。ISBN 4-251-03902-5。
- Isamu Sakai and Yoshinori Hayakawa, Shape Selection of Kompeitoh, J. Phys. Soc. Jpn. 75, 104802 (2006).