雲龍 (空母)

大日本帝国海軍の航空母艦

雲龍(うんりゅう/うんりう)は、大日本帝国海軍航空母艦[1]雲龍型航空母艦1番艦[24]雲竜の表記も使用された[25]

雲龍
公試のため横須賀を出港する雲龍(1944年7月16日)
公試のため横須賀を出港する雲龍(1944年7月16日)
基本情報
建造所 横須賀海軍工廠[1]
運用者  大日本帝国海軍
艦種 航空母艦[2]
級名 雲龍型[3]
建造費 当初予算 87,039,000円[4]
母港 佐世保[5]
艦歴
計画 マル急計画[6]
起工 1942年8月1日[7]
進水 1943年9月25日[7]
竣工 1944年8月6日[7]
最期 1944年12月19日[8]
除籍 1945年2月20日[9]
要目(竣工時)
基準排水量 計画 17,150トン[10]
17,480英トン[要出典]
公試排水量 計画 20,100トン[10]
20,400トン[7] または 20,450トン[11]
満載排水量 計画 21,779トン[10]
全長 227.35m[10]
水線長 223.00[10]
垂線間長 206.52m[10]
水線幅 22.00m[10]
深さ 20.50m(飛行甲板まで)[10]
飛行甲板 216.90m x 27.00m[10]
エレベーター2基[12]
吃水 計画公試平均 7.76m[10]
ボイラー ロ号艦本式専焼缶(空気余熱器付)8基[7]
主機 艦本式タービン(高中低圧)4基[7]
推進 4軸 x 340rpm、直径3.800m[13]
出力 公試全力 152,733shp[14]
終末公試 153,000shp[14]
速力 公試全力 34.28ノット[14]
終末公試 34.59ノット[14]
燃料 重油 3,750トン[10]
航続距離 8,000カイリ / 18ノット[10]
乗員 1,556名[要出典]
定員 1,561名[15]
搭載能力 計画
九一式魚雷36本[16]
爆弾 800kg72個、250kg288個、60kg456個[17]
飛行機用軽質油 360トン[18]
兵装

竣工時
40口径12.7cm連装高角砲6基[19]
25mm3連装機銃 13基[19] または21基[20]
同単装機銃 24挺(橇式)[19]

12cm28連装噴進砲(後日装備) 4基[20]、または6基[21]
九五式爆雷6個(計画)[16]
装甲 計画[22]
弾薬庫舷側:140-50mmNVNC鋼
同甲板:56mmCNC1鋼
機関室(軽質油タンク)舷側:46mmCNC1鋼
同甲板:25mmCNC2鋼
搭載艇 計画 12m内火艇3隻、12m内火ランチ2隻、8m内火ランチ1隻、9mカッター2隻、6m通船1隻、13m特型運貨船2隻[12]
搭載機 雲龍型航空母艦#搭載機を参照
レーダー 21号電探1基[23]
ソナー 計画 仮称九一式四号探信儀1組[16]
その他 カタパルト(後日装備、計画)[17]
テンプレートを表示

概要

編集

雲龍(うんりゅう)は[1]、日本海軍がマル急計画に基づき横須賀海軍工廠で建造した航空母艦[26]1944年(昭和19年)8月に竣工。第一航空戦隊に所属したが[27]、太平洋戦争末期に竣工したため空母機動部隊として実戦に参加する機会はなかった[26]。10月中旬以降の捷一号作戦にともなうレイテ沖海戦の時も、内海西部で待機していた[28]

1944年(昭和19年)12月中旬、内地からフィリピン方面への軍需物資・第1挺進集団など陸軍兵員輸送および特攻機桜花」輸送任務に従事する[29][30]。護衛艦艇3隻(時雨)に護衛されて東シナ海を航行中の12月19日夕刻、アメリカ海軍潜水艦レッドフィッシュに雷撃され[31][32]、沈没した[33]

特徴

編集

艦名の候補として雲龍の他に、蛟龍があった[34]。雲龍という艦名は海上自衛隊そうりゅう型潜水艦の2番艦「うんりゅう」にも使用されている。

雲龍型航空母艦は工事を急ぐために新規設計や各種試験実験を行う余裕がなく、中型空母としては理想的だった飛龍の図面を基に建造されたが、実艦の不具合や運用経験を元に幾つかの変更点が盛り込まれた[35]。これが雲龍型を飛龍改と呼ぶ理由となっている[35]。変更点は以下の通り。

  1. 飛龍で不評だった左舷中央部配置の艦橋を、蒼龍と同様に右舷前部へ配置変更[36]
  2. 舵の形式を蒼龍と同じ吊下式二枚舵とする[35]
  3. 緊急建造の為に中央部エレベータを廃止し2基とした[36]。ただし、各エレベーターは航空機の大型化に対応するために14メートル四方と拡大している。
  4. 竣工時より対潜水艦迷彩を施す[36]
  1. 対空機銃の増設及び12cm28連装噴進砲(ロケット弾)装備(高角砲は同数)。
  2. 以前は右舷側のみの罐の空気取り入れ口を左右両舷とした。
  3. 艦内の塗料を不燃性に変更。
  1. ガソリンタンクの周囲の防水区画にコンクリートを注入して充填する

歴史

編集

建造

編集

1940年(昭和15年)7月、アメリカで両洋艦隊法が成立し、アイオワ級戦艦2隻、モンタナ級戦艦5隻、航空母艦18隻、アラスカ級大型巡洋艦6隻、巡洋艦27隻、駆逐艦115隻、潜水艦43隻の建造が決定する。このうちアメリカ海軍エセックス級航空母艦三隻に対抗するため、翌年に日本海軍は「昭和十六年度戦時急造計画」(マル急計画)として建艦計画をたて、その中で中型空母一隻を緊急建造することとした。これが第302号艦(雲龍)である。第四次海軍軍備充実計画(④計画)で建造予定の空母は1隻(大鳳)のみであり、それも竣工まで時間がかかると予想された為の措置である[36]

昭和16年時点で、11隻の建造が決定していた(最終的に32隻の建造が計画された)エセックス級への対抗とミッドウェイ海戦における空母喪失を補うため、昭和十七年度軍備充実計画を改訂し、昭和十七年度戦時艦船建造補充計画として改大鳳級5隻、先の中型空母15隻の追加建造を決定した[37]

空母雲龍は横須賀海軍工廠[38]、仮称第302号艦として1942年(昭和17年)8月1日に起工[39]。 1943年(昭和18年)7月31日、正式に軍艦(ぐんかん)雲龍(うんりう/うんりゅう)と命名される[1]9月25日昭和天皇の名代として伏見宮博恭王元帥臨席のもと、進水[40][41]。同日附で佐世保鎮守府所属[42]

1944年(昭和19年)4月15日、日本海軍は小西要人大佐(3月26日まで軽巡阿武隈艦長)[43]を雲龍艤装員長に任命する[44]。 小西大佐は、太平洋戦争において第7駆逐隊()司令[45]、続いて第9駆逐隊(朝雲白雲薄雲)司令[46]、阿武隈艦長[47]などを歴任[48][49]。高い操艦能力を持っていた[50][51]。阿武隈艦長時代、小西大佐は阿武隈主計長に「陛下から預かった艦が沈む時は、海の底までついて行く。それが海軍兵学校出身者の使命だ」と語っている[50]。またマリアナ沖海戦で沈没した空母大鳳生存者も、一部は本艦に配属された[52]

第三艦隊

編集

1944年8月6日、雲龍は竣工[26]。小西大佐(雲龍艤装員長)は制式に雲龍艦長となる[53]。同日附で、本艦は第一航空戦隊に編入される[27][54]。起工から竣工まで約2年であり、飛龍型航空母艦の3年に比べて1年短縮されている。しかし日本海軍航空隊はろ号作戦ブーゲンビル島沖航空戦トラック島空襲パラオ大空襲マリアナ沖海戦等の相次ぐ敗北ですでに壊滅状態であったため、雲龍型2隻(雲龍、天城)で第一航空戦隊を編成したものの、空母機動部隊として運用されることはなかった[33][27]

1944年(昭和19年)8月上旬、アメリカ軍機動部隊は硫黄島小笠原諸島に空襲を実施した[48]。これに対処するため、連合艦隊は雲龍を基幹とする「急襲部隊」(指揮官小西要人雲龍艦長)を編制した[48]。空母雲龍、軽巡洋艦五十鈴、第41駆逐隊の秋月型駆逐艦2隻(霜月冬月)という戦力である[55][56]。 急襲部隊は7月10日に新編された第三航空艦隊(長官吉良俊一中将)[57]の指揮下に入り、雲龍は東京湾に進出[48]。訓練に従事した[49]。この時、本艦で新型艦上攻撃機流星横須賀海軍航空隊所属)のロケット発艦実験を実施している[49]。これが、「雲龍」から飛行機が発艦した唯一の機会であった[58]という。 雲龍が出動する事態は生起せず、9月下旬には第三艦隊への復帰命令が出された[48][59]

1944年9月26日、横須賀を出発、瀬戸内海に回航された[48][49]。9月27日、3隻(雲龍、霜月、冬月)は呉に到着[60]。第一機動艦隊司令長官小沢治三郎中将も雲龍に乗艦している[61]

10月1日、雲龍型3番艦葛城が竣工、同日附で第一航空戦隊が再編された[62][63][64]。 10月15日、第一航空戦隊は雲龍型3隻(雲龍、天城、葛城)で編成[33][65]。だが搭載航空隊のない第四航空戦隊の空母2隻(隼鷹龍鳳)と同じく出撃の機会はなかった[28][66]。また、このころ単装機銃を増設した[67]という。

アメリカ軍がフィリピンに襲来してフィリピンの戦いがはじまり、10月下旬のレイテ沖海戦で日本海軍は壊滅した[68]第三艦隊(小沢機動部隊)においては、10月25日のエンガノ岬沖航空戦で空母4隻(瑞鶴、瑞鳳、千歳、千代田)他を喪失[69]。雲龍所属の第601海軍航空隊も第三航空戦隊(瑞鶴)の艦載機や陸上基地に転用され、アメリカ軍との航空戦で戦力を喪失した[70]

小沢中将(第一機動艦隊長官)は日本に帰還したのち雲龍、続いて龍鳳に将旗を掲げたが、11月15日附で第一機動艦隊および第三艦隊は解隊[71][72]。第一航空戦隊は聯合艦隊附属になる[72]。同時に空母2隻(龍鳳、隼鷹)が四航戦から第一航空戦隊に編入される[73]。一航戦は空母5隻(龍鳳、隼鷹、天城、雲龍、葛城)となった[72][74][75]

連合艦隊附属

編集

1944年11月20日、連合艦隊は戦爆2(特攻)・甲戦2(直掩)・艦爆1(偵察誘導)を一隊とする特攻隊を、六隊準備するように命じた[76]。この特攻隊は空母から発進する部隊であった[76]。第一航空戦隊はこの特攻隊を「神武特別攻撃隊」と呼称し、青野計弍大尉を指揮官に任命した[76]。母艦は龍鳳で12月10日に出撃準備完成を予定していたが、登載母艦が雲龍に変更された(12月12日出撃準備完成予定)[76]

12月8日、古村啓蔵少将(第一航空戦隊司令官)はレイテ戦局をにらんで神武部隊に偵察隊(彗星、天山など21機)と制空隊(零戦60機)を加え、第一航空戦隊の空母2隻(天城、雲龍)と月型4隻(昭和19年12月上旬当時、健在の月型は涼月冬月の2隻。花月は12月下旬竣工、宵月は1月下旬竣工)で1月中旬以降に出撃、フィリピン方面で行動するを計画を立案し、意見具申した[76]。しかし、12月12日、連合艦隊(司令長官豊田副武大将、参謀長草鹿龍之介中将、参謀神重徳大佐など)は神武部隊のフィリピン進出と、第一連合基地航空部隊指揮下での作戦を命じており[76]、連合艦隊は神武部隊の空母からの作戦を、すでに断念していたという意見もある[76]。神武特別攻撃隊は12月18日に松山を出発、20日に台中到着(零戦27、彗星7)、21日フィリピンに到着している[76]

フィリピンの戦局が悪化する中、海軍は桜花投入時機について12月23日のレイテ湾を想定していた[77][注釈 1]。しかし桜花の発射母体たる一式陸上攻撃機が、桜花を懸吊したまま内地からフィリピンへ飛行進出する事は不可能であった[77]。そこでフィリピンに整備部隊が先行して駐在し受け入れ体制を整え、しかるのち海上輸送により桜花を進出させる事になる[77]。雲龍は桜花30機を搭載、これをフィリピンへ海上輸送する事になった[30][51]

森野(雲龍航海士)によれば、「当初、空母天城で桜花や陸軍部隊を輸送予定だったが、天城艦長〈宮嵜俊男大佐〉が乗組員の訓練練度を理由に『天城を雲龍に替えられたし』と意見具申、これが認められた」という[81]。12月10日のGF機密第101321番電では、「十五日頃内地発ノ雲龍、龍鳳、駆逐艦四隻ヲ以テ…櫻花等約三,〇〇〇立方米、台湾向ケ輸送ノ予定」となっている[80]。12月13日、米軍はミンドロ島に上陸、ミンドロ島の戦いが始まる[80]

桜花以外にも、雲龍は大発動艇、各種車輌約60台、爆弾・陸戦兵器など軍需品合計約1,500トン、陸軍空挺隊800名を含め便乗者1,500名を積載[82][83]。さらに滑空飛行第一戦隊の軍用グライダー四式特殊輸送機(ク八)」も積み込んでいた[51]。龍鳳主計長によれば、日本陸軍落下傘部隊(挺進連隊)約1000名をフィリピンに緊急輸送するため空母2隻(雲龍、龍鳳)に分乗させて出撃することになったが、一刻を争うため速力の出る雲龍に集中させたという[84]

一方、雲龍の輸送物件を水上特攻ボート震洋」とする文献もある[85][86][87]。震洋(第七震洋隊、50隻)については、空母隼鷹により、11月11日マニラへ輸送されている(11月13日、アメリカ軍はマニラ空襲を実施)[88]

沈没

編集

1944年(昭和19年)12月10日、雲龍は呉に入港して出撃準備を行った[81]。桜花は下部格納庫前部に詰み込まれ、トラックや大発動艇等は飛行甲板に固縛された[81][83]。 12月12日、近藤保平大佐(戦艦長門航海長)は雲龍艦長補佐として、臨時雲龍乗組を命じられる[83][89]

12月17日朝、雲龍は第二水雷戦隊・第21駆逐隊(時雨[90]、第52駆逐隊(駆逐隊司令岩上次一大佐)の松型駆逐艦2隻()に護衛されて呉を出港[51]。 「緊急重要物資」(特攻兵器桜花)[30]陸軍空挺部隊滑空第一聯隊[91][92]輸送のため、フィリピンのマニラへ向かう[93]。 対潜哨戒を受けつつ[94]関門海峡を通過[25][93]。東シナ海に出る[26]。 同日、フィリピン方面で行動中のアメリカ軍機動部隊第38任務部隊コブラ台風に翻弄されていた[95]12月18日の時点で雲龍はアメリカ潜水艦と思われる電波を探知し、警戒を強めていた[96][83]12月19日、艦隊は悪天候の中を航行し、小西大佐(雲龍艦長)や近藤保平大佐以下全員が潜水艦を警戒して艦橋に詰めていた[97][83]。各艦は雲龍を中心として同艦左斜め前方1.5kmに時雨、左斜め後方に樅、右斜め前方1.5kmに檜という配置で航行していた[98]第九〇一海軍航空隊[99]第九五一海軍航空隊の陸上機や飛行艇が雲龍部隊の対潜哨戒に従事した[32]

12月19日13時45分、九五一空の哨戒機は済州島南方海面で浮上潜水艦を発見、250kg爆弾を投下して直撃と撃沈確実を報告した[32]。このアメリカ潜水艦はレッドフィッシュだった[100][101]。レッドフィッシュは陸上飛行機から爆雷攻撃を受け、警戒が厳重な事から重要船団の接近を悟ったという[102]。 午後4時以降、レッドフィッシュは雲龍を中心とする船団を発見し、8分後に距離5400mで艦首より魚雷4本を発射[103]。16時35分、雲龍は魚雷発射音を探知した[104][105]。 雲龍は右に舵をとり魚雷3本まで回避したが16時37分、雲龍の右舷中央部(艦橋下部)に魚雷1本が命中した[106][107]。 命中した魚雷によって第一缶室、第二缶室に浸水した[108][109]。 雲龍からは潜望鏡らしきものが観察され、高角砲と機銃で応戦したが電源が停止して射撃不能となる[110]。機械室で火災が発生しつつ右旋回を続けたが、前部予備電源も停止し、後部予備電源で非常用ディーゼル消防ポンプを作動させた[109]。火災は鎮火したが速度が次第に低下し、やがて停止した[107][103]。雲龍が停止したのは魚雷が命中した地点より、さらにレッドフィッシュ寄りの場所であった[107][98]。乗組員は輸送中のトラックを投棄して傾斜回復につとめた[107][105]。 一方、レッドフィッシュは爆雷攻撃を行う檜に対して魚雷4本を発射したが命中せず、目標を雲龍に変更して艦尾発射管から魚雷1本を発射した[103]。16時45分に2本目の魚雷が雲龍の右舷前部(艦橋のやや後方)に命中した[107][103]。雲龍は1本目の魚雷で右に傾斜しており、2本目の魚雷の炸裂は沈下していた下部格納庫に及んだ[107]。下部格納庫には輸送物資として搭載された「桜花」20機があり[107]、それらが次々と誘爆する状態となった[111][112]。爆発は12.7cm高角砲弾薬庫で起った可能性も指摘される[113]

画像外部リンク
  レッドフィッシュの潜望鏡から撮影された沈没する雲龍、World War II Database

雲龍は前のめりとなって艦首から沈みはじめ、小西艦長は総員退去を命じた[114]。レッドフィッシュは16時56分に沈没寸前の雲龍の姿を潜望鏡から撮影[115]。16時57分、海上に突出していた艦尾が水面下に消え、完全に沈没[116]。レッドフィッシュからは雲龍が黒煙に包まれ沈没は確認できなかったが、黒煙が消えたときに艦影がないことを確認した[107]

アメリカ軍によれば、沈没地点は北緯29度59分 東経124度03分 / 北緯29.983度 東経124.050度 / 29.983; 124.050。第52駆逐隊の報告では北緯28度19分 東経128度40分 / 北緯28.317度 東経128.667度 / 28.317; 128.667[100]。レッドフィッシュは護衛駆逐艦の爆雷攻撃を受けて損傷した[32][31]。帰投したものの再び実戦配備についたのは1945年7月下旬の事であった。護衛駆逐艦3隻のうち、時雨は12月20日に舵故障を起こして第52駆逐隊(樅、檜)と分離、内地へ帰投した[117][118]

『軍艦雲龍戦闘詳報』の戦訓には、「空母は発着甲板を有する故 練習機一機なりとも搭載し対潜哨戒に任ぜしめば昼間攻撃を受くる事なきものと認む。各基地よりの哨戒機のみにては極めて不充分なり」という記載がある[119]。また便乗した兵士などが、艦内を通行した際に防水扉の閉鎖をしないなど、安全管理上に問題があったことが報告されている[120]。雲龍の沈没による戦死者は推定1241名(乗組員)に達し、乗組員生存者89名、便乗者生存者57名と記録されている[121]。 陸軍兵の乗艦者の総計は不明だが、滑空歩兵第一聯隊主力のほとんどが戦死した[92](記録上842名[122]。滑空飛行第一戦隊生存者3名、滑空歩兵第一連隊生存者9名の証言あり)[113][123]。第一挺身通信隊は宇品港にて分隊135名が乗艦、雲龍の沈没により1名以外全員が行方不明となった[124]。 総合すると、沈没時乗艦者(乗組員約1500名、便乗者約1500名)[82]のうち救助者は150名に届かず、雲龍は日本空母中最大の犠牲者を出した[113]。生存者は第52駆逐隊(檜、樅)に分乗し、高雄市(台湾)に上陸した[125]

なお、第52駆逐隊司令の戦闘概報では軍艦雲龍戦闘詳報と生存者数および沈没時刻が異なっている[126][127]
一、雲龍遭難状況 十九日一六三七、北緯二十八度一九分、東経一二八度四〇分において、被雷一、右舷艦橋下に命中。浸水。反転。一六四五第二撃一。右舷前部命中。一六五一火薬庫大爆発。一七〇〇全没[127]
二、敵潜攻撃 (略)
三、救助作業 樅は直に救助に従事。檜は敵潜水艦を攻撃後参加。漂流者案外少なからしも、荒天と夜闇に妨げられ、作業意の如くならず。〇二一〇打切れり、救助人員海軍少尉森野広以下一四二名(陸軍一二、軍属二を含む)[127]
四、所見 雲龍が第一撃により反転後間もなく右舷至近距離に潜望鏡を発見銃撃せると、檜に対する襲撃状況より判断し、敵潜は一隻にして、第一撃発射後目標の大回避に乗じ、浅深度にて反対舷に出て、第二撃艦尾発射をなせしものの如し[127]

艦長

編集
艤装員長
  1. 小西要人 大佐:1944年4月15日[44] - 1944年8月6日[53]
艦長
  1. 小西要人 大佐:1944年8月6日[53] - 12月19日戦死[128](戦死後、少将進級)[129]

脚注

編集

注釈

編集
  1. ^ 海軍は、1944年10月1日に有人ロケット特攻兵器桜花」を配備予定の第七二一海軍航空隊(神雷部隊)を編成し[78]、同航空隊を横須賀鎮守府部隊に編入していたが[78]、レイテで地上決戦が始まるとその投入について具体的な検討を始めた[79]。721空には、攻撃第711飛行隊、戦闘第306飛行隊が編入された[78]。桜花の配備予定は11月初めにフィリピン30機・台湾70機であったが、徐々に遅れはじめ[80]、12月5日、豊田副武連合艦隊司令長官は第762海軍航空隊と第721海軍航空隊とで軍隊区分上の部隊編成をおこない、第一機動基地航空部隊と呼称した(連合艦隊命令作第102号)[78]。この頃、連合艦隊は神雷部隊のフィリピン戦投入を現地航空部隊に連絡していた[80]

出典

編集
  1. ^ a b c d #昭和18年1月~8月達/7月画像36「達第百八十號 横須賀海軍工廠ニ於テ建造中ノ軍艦一隻ニ左ノ通命名セラル 昭和十八年七月三一日 海軍大臣 嶋田繁太郎 軍艦 雲龍(ウンリユウ)」
  2. ^ #昭和18年7月〜8月内令3巻/昭和18年7月(6)画像17「内令第千五百四十九號 艦艇類別等級別表中左ノ通改正ス 昭和十八年七月三一日 海軍大臣 嶋田繁太郎 航空母艦ノ部中「冲鷹」ノ下二「、雲龍」ヲ加フ(以下略)」
  3. ^ #昭和18年9〜10月 内令4巻/昭和18年9月(6)画像24、「内令第千九百八十五號 艦艇類別等級別表中左ノ通改正ス 昭和十八年九月二十五日(中略) | 雲龍型 | 雲龍、天城 |」
  4. ^ 戦史叢書31巻p.815
  5. ^ #昭和18年9〜10月 内令4巻/昭和18年9月(6)画像25「内令第千九百八十七號 軍艦雲龍 右本籍ヲ佐世保鎮守府ト定メラル 昭和十八年九月二五日 海軍大臣 嶋田繁太郎」
  6. ^ 戦史叢書31巻pp.812-817
  7. ^ a b c d e f #昭和造船史1pp.780-781
  8. ^ #写真日本の軍艦第3巻p.233、伊達久「航空母艦『雲龍』行動年表」
  9. ^ #昭和19年10月26日 昭和20年8月16日 軍極秘海軍公報/昭和20年2月画像28、「内令第一五七號(軍極秘) 佐世保鎮守府籍 軍艦 雲龍 右帝國軍艦籍ヨリ除カル 昭和二十年二月二〇日 海軍大臣」
  10. ^ a b c d e f g h i j k l 「一般計画要領書」p.3、註.本表ハ(以下記載ノモノモ同様)昭和十(六年)十一月三十日艦本機密第一二号ノ一〇〇二ノ大臣ニ報告セル当時ノモノヲ示ス
  11. ^ #終戦時の日本海軍艦艇p.14
  12. ^ a b 「航空母艦 一般計画要領書 附現状調査」p.45
  13. ^ 「航空母艦 一般計画要領書 附現状調査」p.34
  14. ^ a b c d #軍艦基本計画資料Sheet114
  15. ^ #内令昭和18年9月(6)画像33-35、昭和18年9月25日内令第1994号、「航空母艦定員表其ノ十ヲ別表ノ如ク定ム(別表一葉添)」。別表は「雲龍」の定員表。士官61人、特務士官37人、准士官56人、下士官372人、兵1035人。
  16. ^ a b c 「航空母艦 一般計画要領書 附現状調査」 p.11
  17. ^ a b 「航空母艦 一般計画要領書 附現状調査」 p.29
  18. ^ 「航空母艦 一般計画要領書 附現状調査」 p.54
  19. ^ a b c 「あ号作戦直前の空母対空兵装(昭和19年5月現在)」#日本空母物語p.417
  20. ^ a b #日本空母物語p.421
  21. ^ #写真日本の軍艦第3巻p.231
  22. ^ #海軍造船技術概要p.1599、「新造艦船主要要目一覧表 昭和18年9月1日 艦本総二課」
  23. ^ #写真日本の軍艦第3巻p233
  24. ^ #艦艇類別等級表(昭和19年11月30日)p.3「軍艦|航空母艦|雲龍型|雲龍、天城、葛城、笠置、阿蘇、生駒」
  25. ^ a b #S1812呉防戦(11)p.19「一八(天候略)一.雲竜d×3関門通過 下関防備部隊出撃掩護対潜哨戒」
  26. ^ a b c d #空母二十九隻328頁「雲龍(うんりゅう)」
  27. ^ a b c #海軍航空部隊編制pp.37-38「◎雲龍 1sf/◎天城 1sf/大鳳 翔鶴 1sf→3F/龍鳳 1sf→4sf/瑞鶴 1sf→3sf}8/10」
  28. ^ a b 戦史叢書93巻30-35頁「大本営海軍部の水上兵力整頓の基本方針」
  29. ^ 戦史叢書41巻558-559頁(図表、滑空第一聯隊)
  30. ^ a b c 戦史叢書102巻272頁「昭和19年(1944年)12月19日」
  31. ^ a b 潜水艦攻撃263-264頁「●米潜水艦レッドフィッシュ(1944年12月19日)」
  32. ^ a b c d 戦史叢書93巻96頁「注、米軍資料」
  33. ^ a b c 日本空母戦史809頁「雲竜の沈没(十二月十九日)―特攻機桜花をつんで―」
  34. ^ 片桐大自『聯合艦隊軍艦銘銘伝』(光人社、1993年) ISBN 4-7698-0386-9、p78。
  35. ^ a b c #日本空母物語146頁
  36. ^ a b c d #日本空母物語273頁
  37. ^ #日本空母物語274頁
  38. ^ #田中2017、横鎮187-188頁「雲龍」
  39. ^ #S1708横鎮日誌(1)p.18「(1)艦船關係 起工、進水、竣工|起工|八月一日|第三〇二號艦|横須賀海軍工廠」
  40. ^ 高松宮日記6巻608頁「九月二十五日(土)晴 晴。〇八〇〇二荒伯。「雲龍」進水式(横)。」
  41. ^ 昭和天皇実録九巻186-187頁「(昭和十八年九月)二十五日 土曜日(略)横須賀海軍工廠に於て軍艦雲龍の命名式挙行につき、博恭王を差し遣わされる。」
  42. ^ #内令昭和18年9月(6)p.25「内令第千九百八十七號 軍艦 雲龍 右本籍ヲ佐世保鎮守府ト定メラル|昭和十八年九月二十五日 海軍大臣 嶋田繁太郎」
  43. ^ 昭和19年3月27日(発令3月26日付)海軍辞令公報(部内限)第1393号 p.18」 アジア歴史資料センター Ref.C13072096900 
  44. ^ a b 昭和19年4月15日(発令4月15日付)海軍辞令公報(部内限)第1422号 p.20」 アジア歴史資料センター Ref.C13072097300 
  45. ^ 昭和18年1月15日(発令1月12日付)海軍辞令公報(部内限)第1030号 p.36」 アジア歴史資料センター Ref.C13072089000 
  46. ^ 昭和18年2月16日(発令2月16日付)海軍辞令公報(部内限)第1054号 p.31」 アジア歴史資料センター Ref.C13072089700 
  47. ^ 昭和18年8月31日(発令8月28日付)海軍辞令公報(部内限)第1199号 p.26」 アジア歴史資料センター Ref.C13072092600 
  48. ^ a b c d e f 日本空母戦史680-682頁「雲竜の急襲部隊編入(八月〜九月)」
  49. ^ a b c d #野元、航母(2013)275-277頁「流星艦攻のロケット発艦実験」
  50. ^ a b #日本海軍の栄光286頁
  51. ^ a b c d 日本空母戦史812-813頁
  52. ^ #野元、航母(2013)270頁
  53. ^ a b c 昭和19年8月13日(発令8月6日付)海軍辞令公報(甲)第1562号 p.33」 アジア歴史資料センター Ref.C13072100500 
  54. ^ #第1機動艦隊戦時日誌p.5「三.七月十日第三艦隊軍隊区分ヲ左ノ通改ム 1sf(瑞鶴、龍鳳、大鳳、翔鶴、601空) 五.八月六日、1sfニ雲龍ヲ編入」
  55. ^ #S1906十一水戦(2)p.57「三十日一一四五GFサチ|三十日一三五〇3AF横鎮(長官)雲龍冬月霜月五十鈴|機密第三〇一一四五番電 八月一日雲龍 五十鈴 霜月 冬月ヲ7FGBニ編入ノ予定ナルトコロ右ハ?使用ニ當リ基地転進不如意ナルガ如キ場合空母搭載移動ヲ以テ攻撃ニ施行セントスル企図搭載竝ニ発艦訓練等ニ関シ計畫準備シ置カレ度」
  56. ^ #S1907十戦隊(2)p.4「(ハ)第四十一駆逐隊 冬月内地方面霜月「リンガ」方面ニアリテ夫々訓練警戒待機ニ從事中ノ所霜月四日「リンガ」発昭南着ヒ七〇船團護衛五日同地発横須賀ニ回航胴体十日附第七基地航空部隊ニ編入爾後ノ経過當司令部ト別動中ニ付詳細不明(同艦戰時日誌参照)」
  57. ^ 昭和19年7月14日(発令7月10日付)海軍辞令公報(部内限)第1535号 p.16」 アジア歴史資料センター Ref.C13072100000 
  58. ^ 空母「雲龍」の最期、130ページ
  59. ^ #第1機動艦隊戦時日誌p.7「至八.二〇自 至九.一二自|九月二十一日雲龍ヲKaMBニ41dgヲ2YBニ編入」
  60. ^ #S1907十戦隊(3)p.22「二七 一〇〇四雲龍(宛略)雲龍機密第二七一〇〇四番電 雲龍第四十一駆逐隊呉着|信電」
  61. ^ #野元、航母(2013)278-279頁「小沢第三艦隊長官の乗艦」
  62. ^ #第1機動艦隊戦時日誌p.7「一.十月一日1sf司令部新設セラレ3sfヲ直率トス/二.3sf昭南方面進出準備基地訓練整備|(将旗)六〇一空(松山基地)」
  63. ^ 昭和19年10月4日 海軍公報第4817号 p.15」 アジア歴史資料センター Ref.C12070502900 「○事務開始 第一航空戰隊司令部ハ十月一日開隊松山航空基地ニ於テ事務ヲ開始セリ」-「○残務整理 第三航空戰隊司令部残務整理ハ第一航空戰隊司令部ニ於テ之ヲ行フ」
  64. ^ 昭和19年10月13日 海軍公報第4825号 p.29」 アジア歴史資料センター Ref.C12070503000 「○書類(除兵備品)引継ニ關スル件 本日附第三航空戰隊司令部ハ解散シ第一航空戰隊司令部新設セラレタル所従来第三航空戰隊司令部ニ配布又ハ貸與シアル首題物件ハ總テ當部ニ引継受領セシニ付了承相成度(第一航空戰隊司令部)」
  65. ^ #海軍航空部隊編制pp.38-39「◎葛城 1sfへ}10/15」
  66. ^ 日本空母戦史810-811頁
  67. ^ 空母「雲龍」の最期、131ページ
  68. ^ 戦史叢書41巻297-299頁「海上決戦」
  69. ^ 戦史叢書41巻297-298頁「参加兵力と損害」
  70. ^ #瑞鶴捷1号詳報(1)p.7「編制 今回ノ3sf搭載航空兵力ハ653空固有ノモノニアラズシテ基地進出後ノ残存兵力ト601空ノ一部ヲ以テ編制サレタル臨時混成兵力ニシテ…」
  71. ^ #第1機動艦隊戦時日誌p.10「10.30 将旗ヲ雲龍ニ移揚/11.7 将旗ヲ龍鳳ニ移揚 /11.15 将旗ヲ徹ス」
  72. ^ a b c 戦史叢書93巻34-36頁「第一機動艦隊、第三艦隊の解隊(十一月十五日)」
  73. ^ 日本空母戦史795-799頁「隼鷹の第二次輸送作戦(十一月〜十二月)」
  74. ^ 日本空母戦史811頁「空母関係兵力一覧(昭和十九年十一月十五日)」
  75. ^ #海軍航空部隊編制p.41「19-12-1 GF|附属|1sf|(×)雲龍 葛城 天城 ◎(×)信濃 隼鷹 龍鳳」
  76. ^ a b c d e f g h 戦史叢書93巻97-98頁「神武特別攻撃隊の比島進出」
  77. ^ a b c #証言・桜花特攻11-13頁
  78. ^ a b c d 戦史叢書93巻94-95頁「神雷部隊の比島進出ならず/第十一航空戦隊の編成」
  79. ^ 戦史叢書45大本営海軍部・聯合艦隊 (6) 第三段作戦後期 346頁
  80. ^ a b c d 戦史叢書93巻95-97頁「櫻花の緊急比島輸送ならず・「雲龍」の沈没」
  81. ^ a b c #野元、航母(2013)279-282頁「マニラへの緊急輸送」
  82. ^ a b 戦史叢書93巻96-96頁(雲龍搭載物件は、侍従武官へ提出の「戦況ニ関スル御説明資料」による)
  83. ^ a b c d e #野元、航母(2013)283-284頁「航空母艦に飛行機の姿なし」
  84. ^ #回想のネーヴィーライフ247頁
  85. ^ 戦史叢書60巻94-95頁「陸軍初の海上挺進作戦」(同著では雲龍は12月7日内地発、12月9日海沈とする)
  86. ^ #空母二十九隻292-293頁
  87. ^ #海上護衛戦(角川)360頁。大井篤(当時、海上護衛総隊参謀)
  88. ^ 日本空母戦史790-795頁「隼鷹の砲弾緊急輸送(十〜十一月)戦艦大和へ四十六センチ砲弾を」
  89. ^ 昭和19年12月16日(発令12月12日付)海軍辞令公報(甲)第1670号 p.16」 アジア歴史資料センター Ref.C13072102300 
  90. ^ #S1911二水戦日誌(1)p.14「麾下艦艇ノ行動 第21駆逐隊(初霜、時雨、初春)」
  91. ^ 戦史叢書41巻562頁
  92. ^ a b 戦史叢書48巻554-555頁「塚田第一挺身集団長の決死的出陣」
  93. ^ a b #雲龍戦闘詳報p.3「軍艦雲龍ハ「マニラ」方面緊急輸送ノ重大任務ヲ以テ雲龍艦長指揮下ニ驅逐艦時雨檜樅ヲ率ヰ十七日朝呉出撃下関海峡朝鮮南岸支那沿岸ノ航路ヲ「マニラ」ニ向ケ南下中ナリ 敵潜水艦ノ制圧攻撃ニ関シテハ第五十二驅逐隊司令ノ命令ニ依リ他ハ雲龍艦長ノ命ニ依ル事ニ定メラレタリ」
  94. ^ #S1812呉防戦(11)p.18「一六(天候略)一.沖ノ島深島哨区日施掃蕩実施 二水丸 新港丸 五日東丸 一七五特駆潜 一.雲竜d×3下関出撃下防部隊右対潜警戒ニ任ズ」
  95. ^ #第二水雷戦隊突入す113頁
  96. ^ #雲龍戦闘詳報p.3「イ)當時ニ於ケル情況 十二月十八日晝間敵潜水艦ヲ水中聴音ニ依リ二回發見シ回避セリ 十八日夜間敵潜水艦ノ電信電話ヲ近距離ニ傍受シ二回豫定航路ヲ変更セリ 敵潜水艦ハ既ニ本部隊ヲ發見打電シ途中ニ待機セルモノト判断シ十九日朝ヨリ益〃警戒ヲ嚴ニシ航行中ナリ」
  97. ^ #雲龍戦闘詳報p.4「(ハ)被雷撃當時ノ情況 別紙附圖第一ノ隊形ヲ以テ速力十八節基準針路二八〇度 一斉回頭之字運動「u」法ヲ以テ第三配備ニテ警戒航行中 悪天候波浪ノ爲見張ハ困難ニシテ水中聴音員ヲ激励シツツ警戒セリ 艦長航海長艦長補佐近藤大佐ハ終始艦橋ニ在リ警戒ヲ嚴ニス」
  98. ^ a b #雲龍戦闘詳報p.11「別紙圖第一」
  99. ^ #S1912第901空大村派遣隊p.5「一九(天候略)陸攻大艇一機船団護衛 大艇一機対潜哨戒|雲龍護衛(略)」
  100. ^ a b #海上護衛戦(角川)361頁
  101. ^ #野元、航母(2013)309頁「海鷹と隼鷹」
  102. ^ 日本空母戦史814頁
  103. ^ a b c d 日本空母戦史815頁
  104. ^ #雲龍戦闘詳報p.4「一六三五五見張員ハ「右三十度雷跡近イ」ト報ズ同時ニ水中聴音員ハ「右三十度魚雷音」ト報ズ 直ニ「面舵一杯前進一杯」ヲ令ス」
  105. ^ a b #野元、航母(2013)284-287頁「二本の魚雷命中」
  106. ^ #雲龍戦闘詳報p.5「舟首概ネ十度回頭セル時舟尾雷跡三本通過ト同時ニ右前方ノ魚雷ヲ躱リ得ズ艦橋下ニ命中ス」
  107. ^ a b c d e f g h 丸 2012年10月号 空母雲龍特集
  108. ^ #雲龍戦闘詳報p.5「被雷後沈没ニ至ル迄ノ艦ノ情況處置ノ概要」
  109. ^ a b #雲龍戦闘詳報pp.5-6「(三)内務科ノ情況 被雷ニ依リ第二搭乗員室附近火災隔壁閉鎖ニ依リ消火セシム主管制制盤室附近一、二缶室浸水ニ依リ三度舟右ニ傾斜防水ヲナスト共ニ飛行甲板上ノ輸送物件「トラック」等ヲ海中投棄シ傾斜ノ復元ヲ計ル 艦内電源停止前部予備電源使用不能ニ依リ後部よび電源ヲ送電後部隔壁灯ヲ点灯ス 非常用「ヂーゼル」消防ポンプ起動ス」
  110. ^ #雲龍戦闘詳報p.6「(四)砲術科ノ對潜戰闘」
  111. ^ #雲龍戦闘詳報p.10「本艦下部格納庫ニマル大魚雷ノ実用頭部爆弾ヲ搭載セル為 魚雷ニ依リ誘爆セルモノト認ム」
  112. ^ #雲龍戦闘詳報p.8「三.戰訓所見 皇國危急ノ際作戰任務未遂行ノ儘陛下ノ御艦ト幾多ノ忠勇ナル将士ヲ失ヒタルハ誠ニ申訳無キ次第ナリ天候不良ニシテ視界悪シト雖モ敵潜ノ發見遅レシ爲急速回避モ及バズ第一被雷ニ依リ機械停止ノタメ第二次雷撃ヲ受クルヲ許シ重要輸送物件ヲ誘爆セシメタルガ沈没ニ到リシ原因ナリト認ム」
  113. ^ a b c 日本空母戦史816-817頁
  114. ^ #雲龍戦闘詳報pp.6-7「一六四五(右)百三十度ニ雷跡ヲ發見セルモ機械停止ノ儘ニシテ右舷前部ニ被雷瞬時ニシテ下部格納庫中ノ輸送物件○大其ノ他ニ誘爆大爆發次第ニ起リ數分ニシテ前部ニ大傾斜ス 沈没ノ已ムナキ状況ヲ認メ艦長ハ總員退去ヲ下令シ艦橋内ニテ「天皇陛下萬歳」ヲ三唱副長航海長ト共ニ艦橋ニ立シ儘艦ト運命ヲ共ニセリ」
  115. ^ STAR-CROSSED SORTIE: The Last Voyage Of UNRYU and DesDiv 52
  116. ^ #雲龍戦闘詳報p.7「一六五七 艦尾ヲ上ニシ全ク海中ニ没ス」
  117. ^ #第二水雷戦隊突入す59頁
  118. ^ #S1911二水戦日誌(1)pp.58-59「12月19日52駆、時雨護衛中ノ雲龍被雷沈没、時雨対潜戦闘|20日0947時雨舵機(電磁弁)故障ノ為佐世保ニ向フ」
  119. ^ #雲龍戦闘詳報p.10『(ハ)対潜哨戒機ヲ搭載ノ要アリ」
  120. ^ #雲龍戦闘詳報p.10『(ヘ)便乗者ニ艦内閉鎖ヲ徹底セシムル要アリ」
  121. ^ #雲龍戦闘詳報p.8「便乗者ノ項正確ナラズ 目下関係各部ニ照会中」
  122. ^ 遭難船舶乗船部隊上申調/泰洋 19年10月31日~雲龍 19年12月19日 p.5」 アジア歴史資料センター Ref.C16120694600 
  123. ^ #陸軍航空部隊略歴(その6)p.32「台湾沖において米潜水艦の攻撃を受け海没(生存者三名)」
  124. ^ #陸軍航空部隊略歴(その6)p.37
  125. ^ #野元、航母(2013)288-290頁「駆逐艦「樅」に救助される」
  126. ^ 「海上護衛戦」 大井篤著(株) 朝日ソノラマ
  127. ^ a b c d #海上護衛戦(角川)361-362頁「発第五十二駆逐隊司令」
  128. ^ #雲龍戦闘詳報p.12
  129. ^ 昭和20年2月16日(発令12月19日付)海軍辞令公報(甲)第1723号 p.42」 アジア歴史資料センター Ref.C13072103400 

参考文献

編集
  • 元「阿武隈」主計長海軍主計少佐市川浩之助『キスカ 日本海軍の栄光』コンパニオン出版、1983年2月。ISBN 4-906121-29-2 
  • 大井篤「第7章 南方ルート臨終記(昭和19年9月から同20年3月まで)」『海上護衛戦』角川文庫、2014年5月(原著1953年)。ISBN 978-4-04-101598-8 
  • 海軍歴史保存会『日本海軍史』第7巻、第10巻、第一法規出版、1995年。
  • 木俣滋郎『日本空母戦史』図書出版社、1977年7月。 
  • 木俣滋郎『第二水雷戦隊突入す 礼号作戦最後の艦砲射撃』光人社NF文庫、2003年3月(原著1972年)。ISBN 4-7698-2375-4 
  • 木俣滋郎『潜水艦攻撃 日本軍が撃沈破した連合軍潜水艦』潮書房光人社〈光人社NF文庫〉、2016年5月(原著1989年)。ISBN 978-4-7698-2949-2 
  • 宮内庁 編『昭和天皇実録 第九 自昭和十八年至昭和二十年』東京書籍株式会社、2016年9月。ISBN 978-4-487-74409-1 
  • 高松宮宣仁親王嶋中鵬二発行人『高松宮日記 第六巻 昭和十八年二月十二日~九月』中央公論社、1997年3月。ISBN 4-12-403396-6 
  • 田中宏巳「第八章 太平洋戦争期の横須賀鎮守府」『横須賀鎮守府』有隣堂〈有隣堂新書〉、2017年5月。ISBN 978-4-89660-224-1 
  • 外山操『艦長たちの軍艦史』光人社、2005年。ISBN 4-7698-1246-9
  • (社)日本造船学会 編『昭和造船史(第1巻)』 明治百年史叢書 第207巻(第3版)、原書房、1981年(原著1977年10月)。ISBN 4-562-00302-2 
  • 野元為輝ほか『航空母艦物語 体験で綴る日本空母の興亡と変遷!』潮書房光人社、2013年6月。ISBN 978-4-7698-1544-0 
    • 当時「雲龍」航海士・海軍少尉森野廣井『最新鋭空母「雲龍」薄幸の生涯 改飛龍型ともいえる一万七千トンの中型正式空母と共に歩んだ五ヵ月間
  • COMPILED BY SHIZUO FUKUI (1947-04-25). JAPANESE NAVAL VESSELS AT THE END OF WAR. ADMINISTRATIVE DIVISION, SECOND DEMOBILIZATION BUREAU (COMPILED BY 福井静夫『終戦時の日本海軍艦艇』第二復員局、1947年04月25日)
  • 福井静夫福井静夫著作集-軍艦七十五年回想記第七巻 日本空母物語』光人社、1996年8月。ISBN 4-7698-0655-8 
  • 福田啓二 編『軍艦基本計画資料』今日の話題社、1989年5月。ISBN 4-87565-207-0 
  • 文藝春秋 編『人間爆弾と呼ばれて 証言・桜花特攻』文藝春秋、2005年3月。ISBN 4-16-366860-8 
  • 防衛庁防衛研修所戦史室『戦史叢書 海軍軍戦備<1> 昭和十六年十一月まで』 第31巻、朝雲新聞社、1969年。 
  • 防衛庁防衛研修所戦史室『戦史叢書 捷号陸軍作戦(1) レイテ決戦』 第41巻、朝雲新聞社、1970年12月。 
  • 防衛庁防衛研修所戦史室『戦史叢書 比島捷号陸軍航空作戦』 第49巻、朝雲新聞社、1971年8月。 
  • 防衛庁防衛研修所戦史室『戦史叢書 捷号陸軍作戦(2) ルソン決戦』 第60巻、朝雲新聞社、1972年11月。 
  • 防衛庁防衛研修所戦史室『戦史叢書 大本營海軍部・聯合艦隊(7) ―戦争最終期―』 第93巻、朝雲新聞社、1976年3月。 
  • 防衛庁防衛研修所戦史室『戦史叢書 陸海軍年表 付 兵器・兵語の解説』 第102巻、朝雲新聞社、1980年1月。 
  • 雑誌『丸』編集部 編『写真日本の軍艦 第3巻 空母I』光人社、1989年9月。ISBN 4-7698-0453-9 
  • 横井俊之ほか『空母二十九隻 日本空母の興亡変遷と戦場の実相』潮書房光人社、2016年2月。ISBN 978-4-7698-1611-9 
    • 戦史研究家塚田享、戦史研究家丹羽年雄、元「海鷹」甲板士官・海軍中尉徳富敬太郎、元「大鷹」飛行長・海軍少佐五十嵐周正『悲運の護送空母たちの航跡』
    • 戦史研究家伊達久『日本海軍航空母艦戦歴一覧 伊吹および雲龍型未成艦をふくむ空母二十九隻の太平洋戦争
  • 六八会『回想のネーヴィーライフ 第三期短期現役海軍主計科士官文集』六八会文集刊行会/たま出版、1981年12月。 
    • 松村正一『海軍生活思い出すまま』(昭和19年9月〜昭和20年3月 空母龍鳳主計長)
  • 「航空母艦 一般計画要領書 附現状調査」
  • 森野廣「空母「雲龍」の最期」『丸エキストラ 戦史と旅34』潮書房、2002年、128-137ページ
  • アジア歴史資料センター(公式) (防衛省防衛研究所)
    • 『昭和18年1月~8月 達/7月』。Ref.C12070119200。 
    • 『昭和18年7月~8月内令3巻/昭和18年7月(6)』。Ref.C12070179400。 
    • 『昭和18年9~10月 内令4巻/昭和18年9月(6)』。Ref.C12070180900。 
    • 『昭和17年8月10日.昭和20年7月13日 内令及び海軍公報(軍極秘)/昭和20年2月』。Ref.C12070204200。 
    • 『昭和19年10月26日 昭和20年8月16日 軍極秘海軍公報/昭和20年2月』。Ref.C12070526400。 
    • 『艦艇特務艦艇籍一覧表』。Ref.C08011233600。 
    • 『昭和19年11月30日現在10版内令提要追録第21号原稿/巻3/第13類艦船(1)』。Ref.C13072039800。 
    • 『昭和17年8月1日~昭和17年8月31日 横須賀鎮守府戦時日誌(1)』。Ref.C08030320400。 
    • 『昭和19年3月1日~昭和19年11月15日 第1機動艦隊戦時日誌』。Ref.C08030036200。 
    • 『昭和19年6月1日~昭和20年6月30日 第11水雷戦隊戦時日誌(2)』。Ref.C08030127500。 
    • 『昭和19年7月1日~昭和19年11月15日 第10戦隊戦時日誌(2)』。Ref.C08030050900。 
    • 『昭和19年7月1日~昭和19年11月15日 第10戦隊戦時日誌(3)』。Ref.C08030051000。 
    • 『昭和19年10月20日~昭和19年10月25日 軍艦瑞鶴捷1号作戦戦闘詳報(1)』。Ref.C08030582100。 
    • 『昭和19年12月19日 軍艦雲龍戦闘詳報』。Ref.C08030585900。 
    • 『第901海軍航空隊大村派遣隊戦時日誌 自昭和19年12月1日至昭和19年12月31日』。Ref.C13120390900。 
    • 『昭和18年12月1日~昭和20年4月6日 呉防備戦隊戦時日誌戦闘詳報(11)』。Ref.C08030370300。 
    • 『昭和19年11月20日~昭和19年12月30日 第2水雷戦隊戦時日誌戦闘詳報(1)』。Ref.C08030102400。 
    • 『昭和19年11月20日~昭和19年12月30日 第2水雷戦隊戦時日誌戦闘詳報(2)』。Ref.C08030102500。 
    • 『陸軍航空部隊略歴(その6) 付.航空部隊の隷指揮下にあったその他の部隊/分割5』。Ref.C12122424100。 

関連項目

編集

外部リンク

編集
  1. ^ 「雲龍」で犠牲 遺族高齢化 第634海軍航空隊基地隊 最後の慰霊”. ヒロシマ平和メディアセンター. 2019年1月6日閲覧。
  NODES
os 1